伝染
翌日、俺は購買に向かう生徒や他の教室に出かけていく女子の群れとすれ違いながらかつては部室として使われていた学校の敷地の最深部にある建物に向かった。
忘れ去られたようにひっそりと、しかし不気味に存在するそれは壁はツタだらけ、元々白かったのであろう外壁は黒く変色し、雨だれの後がつーっと涙のあとのような模様を残していた。
とにかく誰も好んでは近づきたがらない場所だ。
サビて茶色くボロボロになった、寮の階段の2段目のところに目的の人物の茶色い後頭部をみつけた。
「おい不良」
「...げっ西嶋」
不良...井口はやはりタバコを吸っていたようだった。
俺がひと睨み効かすときまり悪そうにまだ長いタバコを地面に押付けた。
「...おまえ、いよいよ学校でも吸ってんのかよ」
井口は長めの髪を鬱陶しそうにかき分け息を吐いた。
「あんたに関係なくね?...てか、自分も吸ってたじゃん。」井口は皮肉っぽく笑った。
「...俺はやめたの」
その言葉に井口が驚いたように目を見開く。
「はぁ?どういう風の吹き回し?給水時間にわざわざここまで来て吸ってたあんたが?」
「...不味くなったから、やめたんだよ」
そう言うと、井口は俺の目を黙って見つめてきた。その茶色っぽい、色素の薄い瞳に俺の中にある本音を見透かされそうで顔を伏せる。俺は確かにほんの1年ほど前まで一時期煙草を吸っていた。きっかけは些細なことだ。テレビ台の上に忘れ去られたように放置されていた父親の煙草の箱。空かと思って蓋を開けると中に数本残っていた。ちょっとした興味と映画やドラマでかっこよく煙草を吸う俳優達への憧れで軽くはじめて、そのままずるずると。
けれど、そんな時だった。新入生として和泉京が入部してきたのは。初めて会った時、彼からクラスの華やかな女子たちが身につけているような甘い香りでも、男子たちが気取ってつけるような整髪剤の人工的な薫りもしないことに気づいた。すれ違った時にほんの一瞬分かるような清潔な石鹸の薫り。和泉のその薫りと、自分のタバコの匂いが染み付いたシャツを比べそして、唐突に自分が酷くつまらない汚い人間のように思えてきたのだ。その日のうちに残っていたタバコをゴミ箱に捨てた。
「そんで?...なんの用」
井口が突然黙りこんだ俺に痺れを切らし面倒くさそうに眉の上を掻きながら言う。
「...別にこれといった用事はねえよ」
俺の言葉に井口は大きくため息をついた。
「あんたが俺にやたらと絡んで来るのってあの時俺にタバコ渡したから?」
「まあな...責任感じてるってのはあるわ。」
井口は、もう退部したが元は部活で一緒だった。
給水時間になるとコソコソいなくなる俺の後をつけてこの寮の階段で間抜け面でふかしている所を見られた。
井口がやたら興味深げに傍に放ってあったタバコのケースを触るので「黙ってるって約束するんならやる」と軽はずみに言った。
早く追い払いたかったのがあるしどうせ受け取らないだらろうと高をくくっていたのだ。
しかし、予想に反してコイツは俺の吸いかけのタバコをポケットに入れ、そして今日という日まで俺がここで喫煙していた事実を誰にも話していないと言うわけだ。
「いや、まじであんたには関係ないから」
井口はそばに置いてあった金色の箱をいじりながら呟く。
「別にあんたがあそこでくれなくても俺は吸ってたわ」
無感情でなんでもない事のように言い捨てられた言葉に、しかし、安堵している自分もいて嫌気がさした。
「俺は吸いたくて吸ってる。現にほらあんたから貰ったやつ。タイプじゃなかったからこれにした。俺は誰のせいでもない自分の責任でやってる。」
薄く笑顔すら浮かべた表情に痛々しさを感じでしまうのは俺の中に罪悪感があるからだ。
やっぱりあの時コイツにタバコを渡すべきじゃなかった。
「本数はそこそこにしろよ。火の始末とか、絶対気をつけろ。」
「はいはい。ご忠告痛み入ります。」
井口はタバコのケースから1本取り出すと慣れた様子で火をつけた。白い煙が口から吐き出される。
俺が背を向けてその場から立ち去ろうとした時だった。
「あ、そういえば俺も渡したわ。タバコ、あんたみたいに。」
「は?」
「和泉、部活の。」
その瞬間思い出したのは清潔なあいつのブレザーから薫った、不釣合いなタバコの匂いだった。
「あいつが?なんで...」
「さぁ?イメージとは違うわな。ちょっと見方かわるかも。あ、そう言えばこいつタバコ吸うんだって。」
俺の脳裏にいつも無表情に見上げてくる和泉の顔が描かれた。
背筋を真っ直ぐ正し、穢れなど知らずに育ちましたというような毅然とした立ち姿。
しかしその細い指と指の間には俺があの時井口に渡したタバコがあった。
和泉はそれを慣れた様子で唇にくわえてこちらに近づいてくる。
いつの間にか俺の唇にも火がついたタバコがあった。
和泉は俺の肩を固く掴むとそっと俺のタバコの先と自分のタバコの先を近ずけた。
ジリジリと紙が焼ける音がする。
ぱっと離れた彼はふぅーっと俺の顔に煙を吹きかけた。苦い苦い、煙草の薫り。
一瞬彼の姿が白い煙で見えなくなる。
次に視界が晴れた時、彼は俺に微笑んでいた。
美しく、いっそ妖しく。
その時俺は悟った。俺から井口へ井口から和泉へ、薫りの呪いは伝染していたのだ。
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