体温を測る恋人たち

未人(みと)

第1話

​ 感染症が終息しても、世界はもう元には戻らなかった。

 人々は、互いの距離を接触ではなく数値として正確に測ることに慣れすぎていた。

 街角に立つセンサーが、すれ違う人々の体温を自動で記録し、公共のスクリーンには「平均体温指数」という統計が映し出されている。

 冷え切った数値の羅列が、まるで人々の感情を測る心の体温計のように扱われていた。


​ “触れ合う”という行為は、推奨されない。


 皮膚は未知の媒介物であり、感情の伝導体でもあるからだ。

 恋人たちは互いの体温をデータで共有し、“ぬくもり”という言葉は、辞書の中でしか見なくなった。

​ それでも彼は、その言葉を信じたかった。

 数値では定義できない、アナログな何かがあると知っていた。

​ 彼女が言った。


「あなたの温度、今日は少し低いね。…どこか具合が悪いの?」

「まさか。君の端末がそう言ってるだけだろ」


 彼は笑って返した。

 彼女の声の奥に、ノイズではない微かな震えを感じる。

 たぶん寒いのだろう。

 けれど、その震えがどんな温度なのか、彼にはもうわからなかった。

​ 測定値の誤差の向こうに、世界が隠した本当の“熱”がある気がしてならなかった。

 

 この世界では、一種の信仰のように誰もが数字を信じ、感覚を疑う。


 けれども、彼だけが、その逆をしていた。

​ 街を覆う無菌室のような透明なバリアの下、二人は対面通話モードで繋がる。

 彼女の姿はホログラムとして彼の横を立ち、

再現された風の中で彼女の髪が揺れると、光の粒子が空中できらめいた。

 ホログラムの彼女の息が、白く曇った。

 その温度も、センサーが勝手に数値化していく。


​「いつか、触れられる日が来るかな」

「来ないかもしれない。でも、それでも確かめたいと思う日が来る」


​ 彼の言葉に、彼女は少し俯いて笑った。

 通信のノイズが混じり、輪郭が揺れる。それが風なのか、感情の震えなのか、彼にはもう判断できなかった。


​「——あなたに、触れたい」


​ その言葉が、システムへの警告音のように鳴り響いた。

 瞬間、画面が白く滲み、警告音が鳴り、数値が赤く跳ね上がる。

 システムが遮断され、映像は途切れた。

​ 静まり返った部屋で、彼はしばらく動けなかった。

 冷たい光の中に、彼女の『触れたい』という声の残響だけが、熱を持ったまま揺れている。

 耳の奥に残った声の温度が、離れない。

 胸の奥がじんわりと痛み、

 心臓の鼓動が、自分の熱を教えてくる。

​ 彼女に触れてはいない。


 それでも——今、心が熱い。


 その熱は、この世界のどんなセンサーも計測できない。

 この熱こそが、数値では測れないたった一つの温度だった。

 それを“愛”と呼ぶには、あまりに不器用な熱だったかもしれない。

 けれど、もし誰かが尋ねたら、彼は答えるだろう。


​「ああ、たぶん今が、僕の平熱だ」


​ そして、その“平熱”こそが、

 彼女が確かに存在した、計測不能な証だった。

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