第5話 雨の夜に、君の声を聞いた

その夜、東京の空はひどく荒れていた。

 風の音と雨の音が混ざり合って、街全体が泣いているみたいだった。

 アパートの屋根を叩く雨音の下で、私はひとり、イヤホンをしていた。

 再生しているのは、あの日のボイスメッセージ。

 > 『葵、元気でな。俺、絶対夢を叶えるから』

 何百回も聞いた。

 そのたびに涙が出るのに、止められなかった。

 だって、それが——“彼の声”だったから。

***

 外はもう夜の10時を過ぎていた。

 雷が鳴り、窓ガラスがわずかに震える。

 眠れそうもなくて、台本を手に取る。

 今週の課題は、「喪失と再生」。

 > “大切な人を失った少女が、声を通してもう一度立ち上がる”

 笑えるほどタイムリーだった。

 台本を読む。

 > 「あなたの声を探して、今日も私は息をしている」

 そこまで読んだ瞬間、胸の奥が締めつけられた。

 涙が、勝手に溢れてきた。

 何度も繰り返す。

 > 「あなたの声を探して——」

 すると、不意にスマホが震えた。

 画面を見る。

 「天野悠真」

 心臓が跳ねる。

 でも、手が震えて通話ボタンを押せなかった。

 なぜ、今——?

 2回目の着信。

 3回目。

 意を決して、指を滑らせた。

 「……もしもし」

 「……葵、さん?」

 彼の声だった。

 少し掠れて、どこか迷っているような声。

 「急にすみません。あの……今日、夢に出てきたんです」

 「夢?」

 「はい。雪の中で、あなたが俺の名前を呼んでて」

 息が詰まる。

 あの日のことを、覚えてる?

 「……それで、どうしても気になって。気づいたら、電話してました」

 彼が小さく笑う。

 「変ですよね」

 「ううん」

 声が震えた。

 「……うれしい」

 電話の向こうで、雨の音が聞こえた。

 きっと、彼の部屋の外でも同じ雨が降っている。

 同じ音を聞きながら、遠く離れた場所で話している。

***

 沈黙が続く。

 でも、不思議と居心地は悪くなかった。

 電話越しでも、彼が“いる”と感じられた。

 「……俺、前に事故に遭ったの、知ってましたか?」

 突然、彼が言った。

 「事故?」

 「三年前。撮影の帰り道。頭を打って、一時的に記憶が飛んだんです」

 「……」

 「声の仕事は続けられたけど、過去の一部が……どうしても思い出せなくて」

 心臓が止まりそうになった。

 やっぱり——。

 「それで最近、妙な夢ばかり見るんです」

 「夢?」

 「雪の中で、誰かが泣いてて。俺の名前を呼んでるんです。

 でも、顔が見えない。いつも声だけ」

 その“声”が誰なのか、私は知っている。

 だって、それは——私だから。

 「その声、覚えてる?」

 「ええ。……すごく優しくて、少し切なくて。

 俺の中の何かを揺さぶる声です」

 涙が滲んだ。

 それは、私の声だった。

 あの日、彼を止めようと必死に叫んだ声。

 「悠真、行かないで」って。

***

 「……思い出したいんです」

 悠真の声が、震えていた。

 「その声の人に、何を伝えたかったのか」

 「伝えたかった?」

 「ええ。夢の中で、何度も何かを言おうとしてるんです。

 でも、言葉が出てこない。喉が詰まって……。

 それがすごく、苦しくて」

 沈黙。

 雨音が、二人の間を埋めていく。

 私は、決心した。

 「ねえ悠真。少しだけ、私の声を聞いてもらっていい?」

 「……え?」

 「ちょっとだけでいいから。目を閉じて、聴いて」

 彼が息を呑む音がした。

 私は深呼吸をして、マイク越しに囁いた。

 > 「——悠真、行かないで」

 雨の音が止んだような気がした。

 沈黙のあと、彼が小さく息を吸った。

 「……それ、夢で聞いた声です」

 「やっぱり」

 「俺……あなたを、どこかで——」

 言葉が途切れた。

 彼の声が震えて、涙混じりになった。

 「思い出せないのが、悔しい。

 でも、心だけが覚えてる。あの日、俺を呼んだ“声”を」

 私は泣いていた。

 もう、どうにもならないほどに。

 「いいんだよ。覚えてなくても。

 あなたが生きていて、夢を叶えようとしてるなら、それでいい」

 「でも——」

 「大丈夫」

 私は静かに言った。

 「だって、私の声はまだあなたに届いてる」

 その瞬間、電話の向こうで彼が嗚咽を漏らした。

 小さく、かすかに、泣いていた。

***

 どれくらい経っただろう。

 雨は少し弱まって、遠くで雷の音が消えた。

 「……ありがとう」

 彼がようやく言った。

 「あなたの声、もう一度聞けてよかった」

 「こちらこそ」

 「また、話してくれますか?」

 「……もちろん」

 通話が切れたあとも、私はずっとイヤホンを外せなかった。

 彼の声の余韻が、胸の奥でずっと響いていた。

 ——記憶は戻らなくても、心は覚えている。

 そんな奇跡のような夜だった。

***

 外に出ると、雨はもう止んでいた。

 街灯の下、水たまりに映る空が静かに揺れている。

 その上を、一枚の雪片がふわりと落ちた。

 冬の終わりを告げるように。

 私は小さく呟いた。

 「……また、会おうね」

 その言葉は、夜空に溶けていった。

 でも、確かにどこかで彼の声が応えた気がした。

 > 『——また、会おう』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る