第4話 君の声が届かない

どうしてだろう。

 会えば会うほど、遠くなっていく気がする。

 悠真は、確かにそこにいる。

 同じ空気を吸って、同じ言葉を交わしているのに。

 その声が、もう私には届かない。

***

 「ねぇ葵、最近ちょっと変じゃない?」

 養成所の同期、千紗が言った。

 いつも明るくて、よく気がつく子。

 「なにが?」

 「声、硬い。なんか、感情閉じ込めてるみたい」

 「……そう?」

 「うん。あのさ、無理してない? 誰かに会った?」

 図星だった。

 けれど、言えるはずもなかった。

 「別に。ちょっと寝不足なだけ」

 「ふぅん……ならいいけど。あんまり我慢しすぎないでよ」

 千紗の言葉に曖昧に笑って、私は練習室を出た。

 廊下の窓から、冬の光が差し込む。

 眩しいのに、どこか冷たい。

 心の奥ではずっと、彼の声が響いている。

 ——あなたの声、ちゃんと届きました。

 あの言葉の意味が、頭から離れない。

***

 数日後。

 再び、悠真の所属するアーツリンクのスタジオに呼ばれた。

 新しいラジオドラマのアシスタントとして。

 現場に着くと、彼の声がもう聞こえていた。

 「じゃあリハ、もう一回いこうか」

 穏やかで落ち着いたトーン。

 笑い声も混じっている。

 彼の隣にはまた、橘紗良がいた。

 彼女はマイクの前で、完璧な笑顔を見せていた。

 声も演技も、すべてがプロそのもの。

 悠真と息がぴったり合っていて、見ているだけで苦しくなる。

 「いい感じだね。さすが、紗良」

 「ありがと。天野くんのセリフ、優しすぎて泣きそうだったよ」

 「はは、演技だからね」

 その笑い声を聞いて、胸が刺された。

 ——あの声は、もう私に向けられることはない。

 録音が終わったあと、紗良が彼に話しかけているのが見えた。

 「ねえ、来週のイベント、一緒に行こ?」

 「うん、いいよ」

 その自然なやりとりが、何より残酷だった。

***

 夜、帰り道。

 雪が少しだけ降っていた。

 街の灯りに照らされて、白い粒がふわりと舞う。

 胸の中で、何かが崩れる音がした。

 「……どうして、私はまだ追いかけてるんだろう」

 彼はもう別の世界にいる。

 過去の記憶なんて、きっとどうでもいい。

 それでも私は、まだ声を探している。

 ポケットの中のスマホを取り出す。

 悠真のボイスメッセージを再生する。

 あの冬の日の、最後の言葉。

 > 『葵、元気でな。俺、絶対夢を叶えるから』

 それだけ。

 けれど、その声があるだけで、私はまだ立っていられた。

***

 数日後の夜。

 偶然、街で悠真を見かけた。

 駅前のカフェ。

 窓の外、雪がちらついている。

 彼は誰かと話していた。

 笑顔で、穏やかで、幸せそうだった。

 相手は——紗良。

 ふたりが向かい合って、笑っている。

 その光景を見た瞬間、息が止まった。

 私は、店に入らなかった。

 ただ外から見ているだけで十分だった。

 これが現実。

 “再会”なんて、ただの幻想だったんだ。

 でも、そのとき。

 紗良が何かを言って、悠真が一瞬だけ顔を曇らせた。

 そして、窓の外を見た。

 まるで——誰かを探しているように。

 その目が、私と合った。

 ほんの一瞬。

 でも確かに、視線がぶつかった。

 雪の中で、時間が止まったみたいだった。

 けれど次の瞬間、彼は何事もなかったように目を逸らした。

 笑顔を作り、紗良に何かを言った。

 それで終わり。

 胸の奥が痛くて、立っていられなかった。

 その場から逃げるように歩き出す。

 息が苦しい。

 心臓が、潰れそうだった。

***

 部屋に戻って、灯りもつけずに床に座り込んだ。

 手の中のスマホを強く握る。

 指が震えて、通話アプリを開く。

 誰にもかけられない。

 でも、声が聞きたかった。

 「……悠真」

 名前を呼ぶ。

 返事なんてあるわけないのに、口に出してしまう。

 そのとき、スマホの画面が光った。

 メッセージ通知。

 ——送信者:天野悠真。

 目を疑った。

 心臓が跳ねる。

 開くと、短い文がひとつだけ。

 > 『今日、外にいましたか?』

 ……見られてた。

 あのとき、やっぱり。

 指が勝手に動く。

 > 『はい。偶然です』

 すぐに返信が来た。

 > 『そうですか。……寒い中、無理しないでくださいね』

 それだけだった。

 けれど、その一文で胸がいっぱいになった。

 彼は私を、完全に“他人”として扱っている。

 でも、それでもいいと思った。

 届かなくても、声を交わせるなら。

 彼の世界の片隅に、少しでもいられるなら。

 それだけで、今は。

***

 夜が更ける。

 ベランダを開けると、冷たい風と一緒に雪の匂いがした。

 街の明かりが遠く揺れている。

 あの日と同じ冬。

 でも、隣には誰もいない。

 私は小さく呟いた。

 「また会えたのに、届かないね」

 その声は、風にかき消された。

 けれど、どこかで誰かが同じ言葉を呟いたような気がした。

 ——まるで、遠くから彼の声が返ってくるみたいに。

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