第6話 記憶の欠片

雨の音が止んだ夜、スマホを握ったまま、俺はしばらく動けなかった。

 通話のあとも、耳の奥で彼女の声が残響のように響いている。

 ——悠真、行かないで。

 初めて聞くはずの声なのに、どうしてこんなにも懐かしいんだろう。

 心臓の奥がずっとざわついている。

 何かが、胸の奥で「思い出せ」と叫んでいる気がした。

***

 記憶を失ったのは、三年前。

 事故の瞬間のことは、今もぼんやりとしか覚えていない。

 雪道、夜、ブレーキの音、そして白い光。

 目を覚ましたとき、病室には母の姿があった。

 「よかった……生きててくれて」

 俺はその言葉に頷いたけれど、何か大事なものが抜け落ちている気がした。

 その“欠落”は、ずっと埋まらなかった。

 声優としての日常も、仕事も、前と変わらないように戻ったのに——

 心だけが、どこか空っぽのままだった。

 でも昨日、電話越しに葵の声を聞いた瞬間。

 その空白の中心が、少しだけ震えた。

***

 翌朝、事務所の控え室。

 鏡越しに自分の顔を見る。

 いつもと変わらない。

 けれど、どこか違う。

 橘紗良が隣の席に座って、笑った。

 「天野くん、昨日寝てないでしょ?」

「……え?」

「顔に出てる。目の下、ちょっとクマある」

「そうかな」

 彼女は軽く肩をすくめて、コーヒーを差し出した。

「飲んで、シャキッとしなよ。今日、収録長いよ」

「ありがとう」

 その優しさに、ちゃんと笑い返せなかった。

心が、別の方向に引っ張られていた。

 ——葵。

 昨夜の声が、まだ耳に残っている。

 台本を開いても、セリフが入ってこない。

 紗良がふとこちらを見て、少し表情を曇らせた。

「ねぇ、最近……誰かと連絡取ってる?」

「え?」

「なんか、雰囲気が変わったっていうか。遠く見てる感じ」

「そんなことないよ」

「ほんとに?」

 その問いを誤魔化すように、俺は笑った。

でも、図星だった。

***

 昼休み。

 事務所の外に出ると、冷たい風が吹いていた。

 冬の終わり。

 でも、空気にはまだ雪の匂いが残っている。

 ポケットからスマホを取り出す。

 画面には昨夜の通話履歴。

 指先でそれを見つめながら、思わず呟く。

「葵……」

 その名前を口にした瞬間、

 脳の奥で光が弾けたような感覚が走った。

 雪の中。

 白い息。

 遠くから誰かが走ってくる。

 ——女の子。

 泣きながら、俺の名前を呼んでいた。

 『悠真、行かないで!』

 その声が、現実と重なった。

 手が震えた。

 あれは夢なんかじゃなかった。

 あの声は、確かに“記憶の中の声”だった。

***

 夜。

 家に帰って、机の上にある古い箱を開けた。

 事故のあと、母が持ってきた“処分しきれなかった私物”。

 雑多なメモ、チケット、ペン、そして——。

 ボイスレコーダー。

 古い型で、もうバッテリーも弱っている。

 けれど、電源を入れると小さく光った。

 再生ボタンを押す。

 > 『天野悠真、葵ボイス日記その3!』

 女の子の声。

 明るくて、少し照れくさそうなトーン。

 俺の胸が跳ねた。

 「これ……」

 続けて彼女が笑いながら言った。

 > 『今日も練習お疲れさま! 明日はデビューオーディションだね。

  絶対受かるよ、私がついてるから!』

 記憶の奥が一気に熱を帯びた。

 フラッシュのように、映像が流れ込む。

 スタジオの隅、マイクを挟んで笑い合う二人。

 葵が真剣な顔で台本を読み、俺がそれを見つめている。

 そして、最後に——。

 > 『悠真、夢を叶えてね。私、ずっと応援してるから』

 そこまで再生したところで、指が止まった。

 喉の奥が詰まって、息が苦しい。

 涙がこぼれた。

 「そうだ……葵は、俺の——」

 言葉が途切れた。

 その瞬間、再生が止まり、機械が息絶えるように電源が落ちた。

 真っ暗な部屋の中で、俺の呼吸音だけが響いている。

***

 スマホを取り、彼女にメッセージを送ろうとして——指が止まる。

 何を言えばいい?

 「思い出した」と?

 「君だった」と?

 そんな簡単な言葉じゃ足りない。

 あの日、彼女の声にどれだけ支えられていたのか。

 どれだけ大切だったのか。

 今さら伝えても、届くわけがない。

 それでも、伝えなきゃいけない。

 深呼吸をして、文字を打つ。

 > 『昔の録音、見つけました。

  たぶん……あれ、あなたですよね』

 送信ボタンを押す。

 数分後、通知音が鳴る。

 > 『はい。……それ、私です』

 それを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。

 涙が止まらなかった。

***

 夜更け。

 窓の外でまた、雪が降り始めた。

 白い世界の中で、ひとつの記憶が蘇る。

 あの日、彼女は泣きながら俺に言った。

 > 『夢を叶えて。私の代わりに、絶対に』

 そうだ。

 彼女は当時、病気で声の仕事を一時休んでいた。

 だから俺が代わりに舞台に立った。

 あの約束が、すべての始まりだったんだ。

 忘れていたわけじゃない。

 思い出すのが、怖かっただけだ。

 俺はスマホを手に取り、葵にもう一度メッセージを送った。

 > 『ありがとう。俺、やっと思い出した。

  君が、俺の“声の原点”だ』

 少し間を置いて、返事が届く。

 > 『……うれしい。やっと届いたね』

 その一文を見た瞬間、涙が滲んだ。

 ようやく——ようやく届いたんだ。

 音が繋いだ記憶。

 声が取り戻した絆。

 俺は小さく呟いた。

 「葵、もう一度……会いたい」

 雪の降る窓の外で、遠くに誰かの声が聞こえた気がした。

 > 『——私も、会いたいよ』

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