第4話:久しぶりの学校へ

朝七時十五分。
 玄関のチャイムが鳴った。
 私は、制服のスカートを三回も整えて、ドアを開けた。

 夏帆は、ブレザーのボタンを全部留めて、ネクタイをぴんと伸ばしていた。
 手に持っているのは、私の分のトーストと紙パックの牛乳。
「おはよう、美玲ちゃん。朝ごはん、一緒に食べよ」
 ――朝ごはん?
 私は、瞬きをした。
 母はまだ寝ていて、父は出張中。
 私は、昨日の夜から何も食べていない。
 夏帆は、にこっと笑って、靴を脱いだ。
「リビングでいい?」
 私は、うなずいた。
 ――また、来てくれた。

 テーブルで、トーストを半分こする。
 バターの香りが、部屋に広がる。
 夏帆は、牛乳をストローで吸いながら、
「今日は、一緒に登校しよう」
 私は、トーストを落としそうになった。
「……え?」
 夏帆は、静かに言った。
「私、ずっと待ってた。美玲ちゃんが学校に来る日を」
 ――待ってた?
 胸が、熱くなった。
 私は、小さくうなずいた。
「……うん」

 家を出る。
 春の朝は、まだ肌寒い。
 私は、制服の袖を引っ張った。
 ――一年ぶり。
 ――外の世界。
 足が、震える。
 夏帆は、私の横に並んだ。
 そして――
 そっと、手を繋いだ。
 ――!
 温かかった。
 指と指が絡まる。
 私は、顔を赤くした。
 夏帆は、照れたように笑った。
「大丈夫。私がいる」
 ――うん。
 私は、小さく握り返した。

 通学路。
 桜並木は、もう葉桜。
 風が吹くたび、緑の葉がざわめく。
 ――人が、いる。
 制服の生徒たち。
 自転車。
 犬の散歩。
 私は、夏帆の手にしがみついた。
 ――見られる。
 ――噂される。
 ――また、いじめられる。
 頭の中で、悪口が渦巻く。
 夏帆は、私の耳元で囁いた。
「美玲ちゃん、こっち見て」
 私は、顔を上げた。
 夏帆の瞳が、まっすぐ私を見ていた。
「私は、美玲ちゃんの味方」
 ――味方。
 涙が、こぼれそうになった。
 私は、うなずいた。
 ――歩ける。
 ――夏帆がいるから。

 校門。
 ――ここ。
 ――ここから、逃げ出した。
 私は、足を止めた。
 夏帆は、私の手をぎゅっと握った。
「一緒に、行こう」
 ――うん。
 私たちは、門をくぐった。

 廊下。
 ――視線。
 ざわめき。
「稲崎……戻ってきた?」
「梅村と一緒に?」
「なんで手、繋いでるの?」
 私は、肩を縮めた。
 夏帆は、私を庇うように前に出た。
「みんな、おはよう」
 彼女の声は、澄んでいた。
 クラスメイトたちが、ぽかんとする。
 ――梅村夏帆。
 ――天才。
 ――誰も、逆らえない。
 私は、夏帆の背中に隠れた。
 ――怖い。
 ――でも、温かい。

 教室。
 ――私の席。
 ――机に、落書き。
 「死ね」「消えろ」
 ――まだ、残ってる。
 私は、息を呑んだ。
 夏帆は、私の前に立った。
「美玲ちゃん、座って」
 私は、震える足で椅子に座った。
 夏帆は、ティッシュを出して、机を拭き始めた。
 ――夏帆が。
 ――私のために。
 クラスメイトたちが、ざわつく。
 ――梅村夏帆が、稲崎美玲の机を拭いてる。
 ――信じられない。
 私は、涙をこらえた。

 ホームルーム。
 担任の先生が、入ってきた。
「稲崎さん、お帰り」
 ――お帰り。
 私は、うなずいた。
 先生は、夏帆を見た。
「梅村さん、ありがとう」
 夏帆は、微笑んだ。
「いえ、私の大切な友達ですから」
 ――友達。
 ――大切な。
 胸が、熱くなった。

 一時間目。
 数学。
 ――苦手。
 でも、夏帆が隣の席に座った。
 ――どうして?
 先生が、黒板に問題を書く。
 二次関数の応用。
 ――昨日、やったやつ。
 私は、ノートを開いた。
 ――星マーク。
 ――夏帆が書いてくれた。
 私は、ペンを握った。
 ――できる。
 ――夏帆がいるから。
 私は、解いた。
 ――正解。
 先生が、褒めた。
「稲崎さん、素晴らしい」
 ――褒められた。
 ――私。
 夏帆が、こっそり親指を立てた。
 ――やった。
 私は、笑った。
 ――初めて、教室で笑った。

 昼休み。
 夏帆と、屋上へ。
 ――二人きり。
 お弁当を広げる。
 夏帆の手作り。
 卵焼き、ウインナー、ミニトマト。
 ――かわいい。
 私は、自分のコンビニおにぎりを出す。
 夏帆は、笑った。
「明日から、私が作るね」
 ――え?
 「二人分」
 ――二人分。
 胸が、ドキドキした。
 風が吹く。
 夏帆の髪が、揺れる。
 ――きれい。
 私は、呟いた。
「……ありがとう」
 夏帆は、首を振った。
「私こそ、ありがとう。美玲ちゃんが来てくれて、嬉しい」
 ――嬉しい。
 ――私で?
 私は、頬を赤くした。

 放課後。
 また、手を繋いで帰る。
 ――視線は、まだある。
 ――でも、もう怖くない。
 夏帆が、言った。
「明日も、一緒に来よう」
 私は、うなずいた。
「……うん」
 ――学校。
 ――怖い場所だった。
 ――でも、今は違う。
 ――夏帆がいるから。

 家に着く。
 玄関で、夏帆が振り返った。
「美玲ちゃん、今日、すごい勇気だったよ」
 ――勇気。
 ――私?
 夏帆は、私の手を握ったまま、
「大好きだよ」
 ――!
 私は、固まった。
 夏帆は、慌てて手を離した。
「あ、ごめん、友達として、ね!」
 ――友達として。
 ――うん。
 でも、胸がドキドキする。
 ――なんで?
 夏帆は、照れ笑いして、
「じゃあ、また明日」
 ――うん。
 私は、ドアを閉めた。
 ――大好き。
 ――友達として。
 でも、耳が熱い。
 ――夏帆。
 私は、制服のままベッドに倒れ込んだ。
 ――学校。
 ――行けた。
 ――夏帆と、一緒に。
 ――明日も。
 初めて、未来が楽しみだった。

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