第3話:初めての勉強デート?!

翌日の午後三時。
 私は、制服のまま玄関に立っていた。
 ――制服なんて、もう一年以上着てない。
 スカートは膝が隠れる長さで、ブレザーのボタンは一つ外れている。鏡を見ると、髪は伸びすぎて肩に絡まり、顔は青白い。頬はこけ、目の下にうっすらと影が落ちている。
 でも、夏帆は「制服で来てね」と言った。
 「学校の雰囲気、思い出そうよ」
 その言葉を信じて、着てみた。
 ――恥ずかしい。
 でも、ちょっとだけ、胸が弾んだ。
 制服の匂い。洗剤の香りと、ほのかに残る日焼け止めの匂い。
 ――懐かしい。
 ――でも、怖い。
 私は、鏡に向かって小さくうなずいた。
 ――大丈夫。
 ――夏帆がいる。

 チャイムが鳴った。
 ピンポーン。
 私は、深呼吸してドアを開けた。
 胸の奥で、心臓が跳ねる。
 ――来てくれた。

 夏帆は、いつもの制服に、薄いベージュのカーディガンを羽織っていた。
 髪はポニーテールで、リボンが揺れている。リボンは淡い水色で、制服の紺とよく合っている。
 手に持っているのは、大きなトートバッグ。キャンバス地で、底がしっかりしている。
 彼女の横顔は、春の陽射しに照らされて、まるで絵画のようだった。
 ――今日は、なんだか特別。
 ――でも、勉強会だから。
「こんにちは、美玲ちゃん」
 ――ちゃん?
 私は、瞬きをした。
 名前を呼ばれただけで、耳が熱くなった。
 ――ちゃん付け……初めて。
 ――優しいな。
「う、うん……こんにちは」
 声が裏返りそうになる。
 夏帆は、にこっと笑った。
 えくぼが、頬に小さくできる。
 ――笑顔、優しい。
「入っていい?」
 私は、慌てて道を開けた。
 ――美玲ちゃん。
 ――ちゃん付け。
 ――勉強会、なのに、なんだか嬉しい。
 胸が、くすぐったい。

 リビングに通す。
 母はまだ仕事中。父は出張で三日目。
 家は静かで、テーブルの上には私が朝から準備したノートと教科書。
 ――数学。
 ――苦手。
 ――でも、夏帆が教えてくれる。
 ――勉強会。
 私は、椅子に座った。
 夏帆は、隣に座った。
 ――近い。
 肩が触れそうで、私は縮こまった。
 肘がテーブルについて、指を絡める。
 ――落ち着け。
 ――勉強だ。
 ――でも、夏帆の香り……シャンプー? いい匂い。
 ――ドキドキ。

 夏帆は、バッグからノートパソコンと参考書を出した。
 パソコンは薄くて軽そう。参考書は新品で、ビニールがまだかかっている。
 ――準備、万端。
 ――さすが、夏帆。
「今日は、二次関数からやろうか」
 私は、うなずいた。
 ――二次関数。
 ――グラフが、頭の中で踊る。
 ――嫌い。
 ――でも、夏帆と一緒なら、頑張れる。
 夏帆は、ホワイトボードを出した。
 ――いつ持ってきたの?
 小さなホワイトボードで、スタンド付き。
 彼女は、マーカーを手に持つ。
 キャップを外す音が、カチッと響く。
 ――指、細い。
 ――きれい。
「まず、基本の形から」
 サラサラと書く。
 y=ax²+bx+c
 ――きれいな字。
 筆圧が均等で、線がまっすぐ。
 ――私、こんな字、書けない。
 ――でも、夏帆は……
 私は、ノートに写す。
 手が震える。
 ――下手くそ。
 ――汚い。
 ――見られたくない。
 夏帆は、私の手をそっと掴んだ。
「リラックスして」
 ――!
 温かかった。
 指先が、ぴりっとした。
 ――手、触れてる……
 ――勉強会、なのに。
 私は、顔を赤くした。
「ご、ごめん……」
 声が小さくなる。
 夏帆は、笑った。
 ――頬、ピンク。
 ――耳、赤い。
「いいよ。私も、緊張してる」
 ――え?
 ――夏帆が、緊張?
 ――天才が?
 ――勉強会、なのに。
 胸が、ドキッとした。
 ――なんで?

 勉強は、ゆっくり進んだ。
 夏帆は、問題を一つずつ解きながら、私に説明する。
「ここ、頂点の座標は?」
 私は、計算する。
 ペンを握る手が、汗ばむ。
 ――集中、しなきゃ。
 ――夏帆の声、優しい。
 ――近くて、ドキドキ。
「……(-1, -4)」
 声が震える。
 「正解!」
 夏帆は、拍手した。
 パチパチと、小さな音。
 ――笑顔。
 ――眩しい。
 私は、びっくりした。
 ――正解?
 ――私?
 胸が、じんとした。
 ――嬉しい。
 ――夏帆が、喜んでる。
 夏帆は、ノートに星マークを書いた。
 赤いペンで、大きく。
「美玲ちゃん、すごいよ」
 ――すごい。
 ――私。
 ――夏帆が、褒めてくれた。
 涙が、こぼれそうになった。
 ――初めて。
 ――こんな、嬉しい。

 一時間が過ぎた。
 時計の針が、四時を指す。
 夏帆は、冷蔵庫から麦茶を出してくれた。
 ――いつ入れたの?
 グラスを二つ。
 氷が、カランと鳴る。
 レモンの輪切りが、浮かんでいる。
 ――おしゃれ。
 ――勉強会、なのに。
 私は、飲んだ。
 冷たくて、喉が喜ぶ。
 酸味が、舌に広がる。
 夏帆は、向かいに座った。
 膝を揃えて、背筋を伸ばす。
 ――きれい。
 ――モデルみたい。
「ねえ、美玲ちゃん」
 私は、顔を上げた。
 グラスを置く手が、震える。
 ――なに?
 ――勉強の話?
「学校、行ってみない?」
 ――学校。
 私は、グラスを握りしめた。
 指が、冷たい。
「……怖い」
 声が、掠れる。
 夏帆は、うなずいた。
「私も、怖いよ」
 ――え?
 ――夏帆が、怖い?
 ――天才が?
 「でも、一緒なら、大丈夫」
 彼女は、テーブルの下で、私の手を握った。
 ――温かい。
 掌が、ぴったりと重なる。
 ――手、繋いでる。
 ――勉強会、なのに。
 ――でも、ドキドキ。
 ――なんで?
 夏帆は、照れたように笑った。
 前髪が、揺れる。
 ――かわいい。
「今日は、ここまで。明日も来ていい?」
 私は、うなずいた。
「……うん」
 声が、小さかった。
 ――明日も、来る。
 ――また、勉強。
 夏帆は、立ち上がった。
 バッグを肩にかける。
「じゃあ、またね」
 彼女は、玄関で振り返った。
 靴を揃えて、
「美玲ちゃん、今日、楽しかった」
 ――楽しかった?
 ――勉強が?
 ――うん、楽しかった。
 私は、頬を赤くした。
「……私も」
 ――本当。
 ――楽しかった。
 ――夏帆と、一緒に。
 夏帆は、ぱっと笑った。
 その笑顔が、頭に焼きついた。
 ――眩しい。
 ――ドキドキ。

 夜、布団の中で、私は目を閉じた。
 ――夏帆。
 ――温かい手。
 ――星マーク。
 ――楽しかった。
 ――学校。
 ――勉強会。
 ――でも、ドキドキ。
 ――これは、なんだろう。
 私は、枕を抱きしめた。
 ――明日も、来る。
 ――一緒に、勉強。
 初めて、明日が楽しみだった。
 ――夏帆と、一緒に。
 窓の外、月が輝いている。
 ――きれい。
 私は、そっと呟いた。
「……ありがとう」
 声は、誰にも届かなかった。
 でも、胸の奥に、温かいものが残った。
 ――夏帆。
 ――優しい。
 ――明日も、会いたい。

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