第2話:天才女の子との出会い

第2章 天才女の子との出会い

 ノックの音は、もう一度だけ響いた。

 トントン。

 私は布団の中で固まった。
 親はまだ仕事中のはずだ。宅配便? でも、インターホンが鳴っていない。
 ――誰だろう。
 心臓が耳の奥でドクドク鳴る。
 私はゆっくりと布団をめくり、裸足で床に降りた。足の裏が冷たい。
 ドアの前に立つ。鍵はかけたまま。
 息を殺して、のぞき窓から外を見る。

 そこに立っていたのは――

 梅村夏帆だった。

 長い髪は陽射しを受けて栗色に輝き、制服のブレザーが肩にぴったりと沿っている。
 彼女は学校のエース。
 運動会ではリレーで優勝し、期末テストは常に学年一位。文化祭の実行委員長も務めた。
 顔立ちは整っていて、笑うとえくぼができる。
 ――私が知っている、もっとも遠い存在。
 私とは一度も言葉を交わしたことがない。
 なのに、なぜここに?

 私は震える手で鍵を外した。
 ドアをほんの少しだけ開ける。
「……あの」
 声が掠れた。
 夏帆は、静かに微笑んだ。
「稲崎さん、こんにちは。突然でごめんね」
 その声は、廊下に響くほど澄んでいた。

 私は、開けたドアの隙間に顔を半分だけ出した。
「……どうして」
 それしか言えなかった。
 夏帆は、両手に小さな紙袋を持っていた。
「これ、お土産。コンビニの新作プリン。甘すぎないやつ」
 私は瞬きをした。
 ――どうして知ってるの?
 私は、いつもそのプリンを買う。レジで「袋にお入れしますか?」と聞かれるたび、首を横に振る。
 でも、夏帆は知らないはずだ。

 彼女は、紙袋を差し出した。
「受け取ってくれる?」
 私は、恐る恐る手を伸ばす。指先が触れそうになった瞬間――
 夏帆が、ふっと息を吐いた。
「実はね、稲崎さんにお願いがあるの」
 私は、袋を受け取った。
 温かかった。
「……お願い?」
 夏帆は、うなずいた。
「私、数学の応用問題が苦手で。稲崎さん、教えてくれないかな」
 ――嘘だ。
 私は、目を丸くした。
 夏帆は学年一位だ。数学の先生が「梅村さんの解法は大学レベル」と褒めていたのを、教室の隅で聞いたことがある。
 なのに、なぜ私に?

 私は、首を横に振った。
「私……何もできないよ」
 声が震える。
 夏帆は、静かに言った。
「違うよ。稲崎さんは、優しい」
 ――優しい?
 私は、目を伏せた。
「そんなの……」
 夏帆は、一歩近づいた。
「中一のとき、覚えてる?」
 私は、顔を上げた。
 ――中一?
 記憶の奥に、ぼんやりとした光景が浮かぶ。
 校庭の隅。桜の木の下。
 泣いている女の子。
 私に、そっとハンカチを差し出した。
 ――あれは……

 「私、梅村夏帆」
 彼女は、微笑んだ。
「そのとき、稲崎さんに助けられた。覚えててくれて、嬉しい」
 私は、息を呑んだ。
 あのときの女の子は、髪が短くて、制服が大きすぎて、泣きじゃくっていた。
 ――夏帆だった。
 私は、震える声で言った。
「でも……私、何もしてない。ただ、ハンカチを……」
 夏帆は、首を振った。
「それが、私の宝物になった」
 彼女は、ポケットから折りたたんだハンカチを出した。
 白地に、小さな桜の刺繍。
 ――私があげたものだ。
 三年間、大切にされていた。

 私は、言葉を失った。
 夏帆は、静かに続けた。
「それから、ずっと稲崎さんを見ていた。
 でも、去年……稲崎さんがいじめられてるとき、私、助けられなかった。
 怖かった。自分が標的にされるのが。
 ――ごめんね」
 彼女の瞳が、潤んだ。
 私は、胸が締めつけられた。
 ――私を見ていた?
 ――助けたかった?

 夏帆は、深く息を吸った。
「だから、今度は私が稲崎さんの番。
 一緒に、勉強しよう。
 学校にも、戻ろう」
 私は、紙袋を胸に抱えた。
 プリンの温もりが、伝わってくる。
 ――戻れる?
 ――私に?
 涙が、こぼれそうになった。
 私は、小さくうなずいた。
「……うん」
 夏帆の顔が、ぱっと明るくなった。
「やった! じゃあ、明日からね」
 彼女は、くるりと背を向けた。
 階段を下りていく。
 私は、ドアを閉めた。
 鍵をかけない。
 初めて、鍵をかけなかった。

 部屋に戻ると、ベッドに座った。
 紙袋を開ける。
 プリンが二つ。
 ――一つは、私の分。
 ――一つは、夏帆の分。
 私は、蓋を開けた。
 甘い香りが、部屋に広がる。
 スプーンですくう。
 口に入れる。
 ――温かい。
 涙が、頬を伝った。
 ――明日から、何かが変わる。
 私は、初めて、窓を開けた。
 春の風が、部屋に入ってきた。
 桜の花びらが、一枚、舞い込んだ。
 私は、それをそっと拾った。
 ――夏帆。
 その名前を、胸にしまった。

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