淡い春の光
凪
第1話:プロローグ
私は稲崎美玲、十四歳。 中学二年生の春から、学校へ行っていない。
理由は簡単だ。何もできないから。 体育の時間、ドッジボールで当てられても逃げられない。リレーではアンカーを任され、スタートの合図で固まってしまい、クラス中からため息が漏れた。数学の小テストはいつも赤点。漢字の書き取りでは「稲」という字すら間違える。 顔だって、鏡を見るたびにため息が出る。 クラスメイトの女の子たちは、制服のスカートを短く折って、髪をふわっとさせて、笑顔がキラキラしている。まぶたにラメを塗って、唇にグロスを重ねて、廊下を歩くだけで視線を集める。私は、いつも隅っこで縮こまっていた。 前髪は伸びすぎて目にかかり、制服はサイズが合わず、袖口が手首を隠してしまう。靴下は片方だけ穴が開いていて、体育館の床で冷たさが伝わる。 ――私は、どこにも属せない。
最初は小さな悪口だった。 「稲崎って、ほんと使えないよね」 それが、机に「死ね」と落書きされ、教科書がビリビリに破られ、靴箱に生ゴミが入るようになった。 帰り道、校門を出たところで石を投げられた。肩に当たって、制服が破れた。血が出たけど、誰にも言えなかった。 私は泣きながら先生に訴えた。 「助けてください」 でも、先生は「みんなが悪いわけじゃない。美玲ちゃんも、もう少し頑張って」と言うだけ。 親には「学校行きたくない」と泣きついた。母はため息をついて、父は「甘えるな」と一喝した。 友達? いたかもしれない。 でも、いつの間にか誰も声をかけてくれなくなった。LINEのグループからも外され、クラスの連絡網にも名前が載らなくなった。 ――私は、透明人間になった。
だから、私は家に閉じこもった。
朝、両親が出勤すると、静寂が降りる。 カーテンを閉めたまま、部屋の明かりはつけっぱなし。蛍光灯のチカチカが目に痛いけど、消すと暗闇が怖い。 ベッドの上に座り、膝を抱えて、スマホを握りしめる。充電はいつも満タン。バッテリーが切れると、外の世界との最後の糸が切れる気がする。 SNSは見ない。見たら、クラスメイトの楽しそうな写真が目に入るから。 文化祭の準備の様子。テスト前の勉強会。放課後のカフェ。みんな、笑っている。私だけがいない。 お腹が空いたら、親が出かけた直後にコンビニへ走る。 家の鍵を握りしめて、玄関のドアをそっと開ける。外の空気は冷たくて、肺が縮こまる。 コンビニまでは徒歩三分。でも、誰かに見られたらと思うと、足が震える。 レジの店員さんにも、目を合わせられない。バーコードをピッと鳴らされるたびに、心臓が跳ねる。 袋に詰めたおにぎりとカップ麺と、チョコレートを一つ。甘いものが欲しくて、つい手が伸びる。 急いで帰る。走る。家のドアを閉めると、鍵を二重にかける。 部屋に戻ると、息を吐く。 ――ここは、私の城。誰も入れない。
一日中、ベッドの上で過ごす。 漫画を読む。音楽を聴く。イヤホンを耳に押し込んで、音量を最大にする。外の音が聞こえなくなるように。 ときどき、窓の隙間から空を見上げる。雲がゆっくり流れる。鳥が飛ぶ。遠くで子供の声がする。 ――あの世界に、私は戻れない。
夜、親が帰ってくると、夕飯の時間だけリビングに出る。 母は「今日も学校、行かなくてよかったの?」と聞く。 私は「うん」とだけ答える。 父はテレビを見ながら、ときどき「いつまで引きこもってるつもりだ」と呟く。 食事が終わると、また部屋に逃げる。 布団に潜り込んで、目を閉じる。でも、眠れない。 夢の中でも、教室にいる。みんなに笑われている。 ――明日も、誰も私のことを覚えていないだろう。
そんな日々が、どれだけ続いただろう。 カレンダーの数字は変わるけど、私の時間は止まったままだった。 春が来て、桜が散って、梅雨が来て、夏が来て、また秋が来る。 外の世界は、遠い。 私は、ここにいる。 誰にも必要とされず、誰とも繋がれず、ただ、息をしているだけ。
でも、春が来て―― 私の部屋のドアが、初めて、誰かにノックされた。 トントン。 小さな音。 でも、私の心臓は、大きく跳ねた。
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