第28話 喫茶サフランでの四人
西山が動画ファイルを閉じると、パソコンの画面は再び真っ青なデスクトップへと切り替わった。
その瞬間、川島は、自分が画面を見つめていたことに、はっと気づいた。
——そうだった。昨日この喫茶店で、自分達が西山の話を聞いたという映像を見ていたのだった。
だが、川島の頭はどこか霞がかったようにぼんやりしていて、映像に映っていた内容をうまく思い返そうとすると、記憶が指の間からこぼれ落ちるように散っていく。
それでも——ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
あんな話、受け入れられるわけがない。
胸の奥から、強い拒絶が思わずこみ上げてくる。
自分がサンタクロースの「ごっこ遊び」を延々続けてきただけだ?
記憶を消され、空想と現実の区別がつかなくなっていた?
そんなもの——馬鹿げている。あまりに荒唐無稽すぎる。
一体この西山という男は何故こんな作り話をしているのだろうか…?
西山は、落ち着いた声の調子のまま、川島に向けてゆっくりと話し掛けた。
「川島君。昨日、あなたはみんなと一緒にここで話を聞いていました。その様子からすると……やはり、ここにいたことも、今お見せした映像の内容も覚えていないのですね?」
改めてそう尋ねられ、川島はもう一度、昨日の行動を思い返してみた。だが、この喫茶店で、この人達と一緒に居たという記憶は全くなかった。それは間違いはない。
そこで、それを西山に伝えようと口を開きかけた瞬間、川島の向かいに座っていた池脇が先程と同じような質問を川島に対して投げ掛けた。
「お前、本当に昨日の事覚えていないのか?」
その池脇の顔は真剣そのもので、何かを懇願するような切実さがにじみ出ていた。
「俺達は、昨日一緒に不二子をカエル男から救い出したじゃないか。」
池脇の声は少し震えていた。
川島は、そのあまりの切実さに少し困惑して、黙ってその青年の顔を見返していた。すると、その隣の鈴鹿という女性が続いて口を開いた。
「昨日、あなたは私達とここにいたんですよ。それに、今この方が言ったように、あなたは私を助けてくれたんです。本当にそれも全て覚えていないの?」
川島は、今度はその女性の方に顔を向けた。とても美しい女性だったが、唇の端に切れたような傷があり少し痛々しい。だが、以前にどこかで会った、もしくは見かけたという記憶はやはりなかった。
川島は、右隣に座っていた今田という男の顔も、もう一度確認をしてみたが、結論は同じだった。ここにいる人達とは一度も会ったことがない。
「あの…、一体これは何なのですか?僕はやっぱりあなた方には一度も会っていないし、それに、どうして僕が…、その…、僕の正体を知っているんですか?」
川島は少し語気を強め、自分の疑問を西山にぶつけた。
「うん…、そう簡単に受け入れてくれるとは思ってはいませんでした。」
西山は、少し憐れむような目で川島を見返してきた。
川島は、その態度が何となく気に障り、さらに強く出た。
「本当に何なんですか?あなたの…、あなた方の正体は何者なんですか?」
西山に対する苛立ちなのか、状況を把握できない己に対する怒りなのか、川島は自分でも判別ができなくなってきていた。
西山以外の三人は、相変わらず川島のことを寂しそうな目で見つめ続けていた。
川島は西山から他の三人へと視線を移してみる。この三人の様子は明らかに西山の雰囲気とは違う。もしかしたら、彼らもまた西山という男の被害者なのかもしれない。
川島は西山に視線を戻し、何とか心を落ち着つかせて、もう一度話しかけた。
「あなたが何者なのかはもういいです。そんな事は僕には関係ない。ただ、あなたの望みは何なんですか?僕をこんな所に呼び出して、一体どうしたいんですか?」
西山はすぐには答えなかった。川島の目を見ながらも、何か思案しているようだった。それから、小さなため息を吐き出してから、ゆっくりと話始める。
「私は本当にただの医者です。そして、私はあなたの…、あなた達の手助けをしたいだけなんです。皆さんがもし、自分の価値観や妄想の中だけに生きていくというなら、それでも構いません。ただ、そういう生き方にも私の助けがどうしても必要なんです。現に、私は、今も皆さんの生活を陰から支えています。」
そこで、西山は四人の顔を見回して、こちらの反応を伺っている。
川島は何のことを言われているのか全く分からなかった。他の三人も同様に、西山の意図するところにはピンと来ていないようだ。
四人の様子を確認してから、西山は再び説明の続きに入る。
「皆さん、は自分でアパートの賃貸契約をしたことがありますか?いや、分かっています。ないですよね。今、あなた達が住んでいるアパートは全て、私がオーナーのアパートの一室なんです。元々は、この町の出身の祖父がいくつもの賃貸物件を所有していて、それを私達が代々受け継いできたものです。兄の罪滅ぼしとして、君達に普通の生活を経験させようと決めた時に、それぞれのアパートに住んでもらうことにしました。不動産屋でアパートを借りるとしたら結構大変なんですよ。書類も何枚も書かなければならないし、連帯保証人も必要になる。それに、礼金や敷金として結構な額のお金を支払わなければならない。あなた達はそうした手続きをした記憶がないでしょう?皆さんの部屋は全て私が提供したものだから、そういった手続きもなく、住むことができているんです。」
そこで、一息つくかのように言葉を区切り、四人に向かって軽い微笑みを投げかける。
そう言われて、川島は自分の住んでいる部屋について考えてみたが、確かに、どのようにして移り住んだのか記憶が曖昧なように思える。いやきっと、サンタクロースには、役割に集中できるよう住居などのサポートはあるに違いない。ただ、それは誰からだ?サンタクロースの故郷ラップランドからのサポートだろうか…。
「お金の話をしたついでに言うと、皆さんは自分の部屋の電気代、水道代、ガス代なんて払ったことはないでしょう。今の時代、人はお金を払わずに暮らすなんて不可能なんです。今は、私が生活にかかる全てのお金を援助しています。」
…そうだとしたら、この西山という人がサンタクロースを支援する人なのではないのだろうか。しかし、本人が、自分はただの医者で、援助をしている理由は、彼の兄の罪滅ぼしだと言っている…。
川島は、西山の話と自分の思考の間を行ったり来たりしながら、少しずつ混乱の砂地に足を取られ始めていた。
「それに、私が毎月一定の額のお金を新聞受けに入れているんですよ。あなた達が、毎日食事をして、生活に必要なものを買えるだけの金額を援助しているんです。」
新聞受けに入れられていたお金。あれは深くは考えず、サンタクロースへのサポートの一環だと認識していたが、あのお金も西山が送ってくれたものだというのか?
西山の話は、これまで曖昧に済ませてきた認識の隙間に染み入り、そこから川島の思考に少しずつヒビを生じさせる。
そして、それは川島だけではないようだ。他の三人も、その表情から判断すると、今の話に少なからず衝撃を受けているようだ。必死に過去の認識を思い返しているのだろう。
「川島君…。」
川島は突然自分の名前が呼ばれ、思考中の頭が目の前の現実に引き戻される。
「川島君は毎日動物園に行っていますが、そのバス代も動物園の入園料も、毎月、私が援助しているお陰で、支払うことができているんですよ。これは紛れもない事実です。いくらあなたがそれを否定したところで、もし、私が援助をやめてしまったら、あなたは日々の生活もままならなくなってしまう。」
西山の口調は穏やかなままだった。その諭すような声が、再び川島を混沌とした思考の深みに引きずり込んでいく。
…お金は確かに、新聞受けに入れられていた。いや、本当にそうだろうか?あの白い封筒に入れられたお金はどのようにして自分の手元にやってきたのか?いや、そんなことはどうでもよい。あのお金が受け取れないと生活を続けられなくなるなんて…
「私はあなたを困らせたい訳でも、脅している訳でもないんです。ただ、皆さんが、真実を受け入れ、将来幸せに過ごせるように手助けをしたいだけなんです。」
川島は、必死に思考を巡らせていた。そして、心の奥底に芽生えた得体の知れない不安が徐々に大きくなっていくのを感じていた。
…この男の話は信じてはいけない。全て嘘なんだ。一体どういう目的なのは分からないが、こちらを混乱させ、サンタクロースの仕事を妨害したいだけなんだ。だって、現に、昨夜もトナカイと夜の空を飛び回り、クリスマスに向けた準備をしたじゃないか。…ソリ?…あれ?その後、ソリはどうしただろう…、ソリはどこにやったんだっけ?部屋に戻ってきて、それから…、ソリはどうした…?
川島の中で、不安がさらに大きく膨らんできた。それと共に、頭の芯がぼんやりとしびれ始めていた。
その時、不意に女性の声が西山に向かって問い掛けをするのが聞こえた。川島の右前に座っている鈴鹿の声だ。
「あの…、もし、西山さんがこれまで私達を助けてくれて、見守っていてくれていたとしたら、どうして今頃になって、その話を打ち明けたんですか?」
その問いに、優しく答える西山の声が続く。
「こうしてきちんと話さなければと思った原因は、あなたですよ、鈴鹿さん。」
鈴鹿はその答えに対し、「えっ」と、小さい驚きを漏らした。
「私は皆さんが、住んでいるアパートの周辺で大人しく生活を続けてくれるものだと勝手に思い込んでいました。実際、数か月の間、あなた達は自分の部屋の周辺のみで行動していたので、あまり心配していませんでした。しかし、2週間前くらいに、鈴鹿さんが急にアパートに戻らなくなっているのに気が付きました。それから、あなたの事を必死に探しましたよ。もしかしたら、事件や事故に巻き込まれてしまったのではないかと思って。そうしたら、偶然にも、あなたが南さんのお店で働いているのがわかって、最近の暮らしについて少し調べさせてもらいました。」
そう言ってから、西山は川島の向かいに座る池脇に、「鈴鹿さんを見つけられたのは、池脇君のお陰です。」と、声を掛けた。
「ある日、池脇君がこの喫茶店に入るのを偶然見かけて、中を覗いてみると鈴鹿さんが働いていたという訳なんですよ。」
そう言って、西山は本当にホッとしたような笑顔を一瞬だけ見せた。
「でも、鈴鹿さんをすぐに見つけられたのは単に運が良かっただけで、もしかしたら、この町を出て、違う町に行ってしまう可能性もあったかもしれない。それで本当に一生幸せな生活を送れるのなら、問題ないのですが、今回の鈴鹿さんはあまり幸せなようには見えませんでした…。」
西山にそう言われ、鈴鹿という女性の顔が急に曇った。
川島には、彼女に何があったのかは分からなかったが、その様子からすると、西山の話にも一定の真実が含まれているのだろう。
「とにかく今回は、とても運が良かったのだと思います。こうして無事にいるんですからね。だから、これからは皆さんの安全も考えると、真実を全て話して、将来を一緒に考えていくことが一番良いと考えたんです。」
そこで、西山は話を切った。
しばらくの間、誰も話そうとしなかったが、鈴鹿が再びゆっくりと口を開いた。
「私は…、西山さんの話をすぐに信じることは正直できません。だって、私がこれまで経験してきたことが、全て単なる自分の想像だったなんてとても思えないから。今でも、それぞれの思い出は、本当に昨日の出来事のように思い出すことができるし、その感覚はこの体にしっかりと残っています。」
彼女の表情は、その毅然とした言葉とは裏腹に苦渋のものだった。
「ただ…、確かに、西山さんがおっしゃったように、昨日、自分の価値観の中で正しいと信じていたものが、実は単なる偽物だったとわかり、とても大きなショックを受けました。それは認めます。」
夢の居ぬ間に 日ノ出ヨシキ @hinode2028
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