第27話 記録の中の四人

1985年7月23日からの抜粋

朝方、外から子どもたちの声が聞こえた。小学生の遠足の一団かもしれない。驚いたことに、その声に反応して、昭の脳波に大きな変化が見られた。普段、昭の脳波が変動することはほとんどない。しかし、同年代の子どもの声には、本能的に何か感じ取るものがあるのかもしれない。


1985年7月29日からの抜粋

今日は、以前の同僚の医師に頼み、息子さんを連れて別荘まで来てもらった。目的は、昭が子どもの声にどう反応するかを確認すること。予想通り、子どもの声を聞くと脳波はいつもと異なる反応を示したが、先日の反応に比べるとやや弱い。もっと賑やかな環境のほうが良いのだろうか。


1985年8月6日からの抜粋

町の児童養護施設から四人の子どもたちが、この別荘に遊びに来た。四人はちょうど昭と同じ年齢。昭の部屋でおよそ一時間、自由に遊んでもらった。すると、同僚の子どもが来たときよりも明らかに大きな脳波の変化が見られた。とくに、昭の名前が呼ばれたとき、今まで見たことのない波形が現れた。もしかしたら――この子どもたちなら、昭を救えるかもしれない。


西山はそこで日記をめくる手を止め、静かに視線を上げた。しばらく四人を見渡し、それからゆっくりと語りはじめた。

「ここに書かれている児童養護施設には、父の代から多額の寄付をしていました。これは私の推測ですが……兄はその関係を利用し、この四人の子どもたちを施設から別荘へ移し、そこで生活させるようにしたのだと思います。その四人というのが――川島正一郎君、池脇悟君、鈴鹿亜美さん、今田勝久君。君たちです。今はもうその施設はなくなってしまっているため、どういう経緯で君たちが選ばれたのかは分かりません。その施設に昭君と同じ年齢の子が四人しかいなかったのか、あるいは偶然選ばれてしまったのか……。確かなのは、君たちが兄と昭君が暮らしていた別荘に移され、そこで一緒に生活を始めたということ。そして――それが兄の『自分の息子を救いたい』という思いから生まれた、あまりにも身勝手な行動だったということです。もちろん兄なりに、君たちの別荘での生活が少しでも快適になるよう気をつかっていた形跡はあります……。しかし、君たちを学校にも通わせず、毎日昭君の治療のために利用していたという事実は、どんな配慮をしたところで消えるものではありません」

西山はそこで苦しげに言葉を閉じ、再び日記に視線を落とすと、次のページをめくりはじめた。


1985年9月1日からの抜粋

四人の子どもたちが施設から別荘に移って来た。新しい環境に戸惑っているのか、皆どことなく元気がない。今日からは、以前うちで働いてくれていた家政婦の加藤さんにも、住み込みで手伝ってもらうことにした。四人がまた笑顔で遊べるよう、この別荘を少しずつ変えていかなければならない。そして――昭の意識が戻ったら、この四人と一緒に、この屋敷でたくさんの思い出を作れるようにしよう。


1985年9月2日からの抜粋

午前中は、子どもたちを加藤さんに任せて、皆が遊べるようなおもちゃや本を買いに行った。以前、昭にもいろいろなおもちゃを買ってやったことを、今でも鮮明に覚えている。もう一度、昭と一緒におもちゃ屋へ行ける日は来るのだろうか……。


1985年9月3日からの抜粋

子どもたちは買ってきたおもちゃを気に入ったようだ。朝から大はしゃぎで遊んでいる。昭の脳波も、子どもたちの元気な声に大きく反応している。さらに楽しく遊べる環境を整えながら、昭の様子をよく観察していこう。


西山はそこで日記から顔を上げ、静かに四人に向けて語りかけた。

「君たち四人が元気に遊ぶ声が、昭君にとって最も良い刺激になる――兄はそう考えたようです。だから君たちが夢中で遊べる環境を整えながら、昭君の状態を毎日注意深く観察していました。君たちも、昭君の存在にすぐ慣れていったようで、ベッドの彼に話しかけたり、おもちゃで一緒に遊んであげたりしていたと日記には書かれています。昭君の脳波は、君たちが声を掛けるたびに強く反応して、まるで君たちとコミュニケーションを取ろうとしているかのようだったそうです。兄はそんな反応を見て、昭君の意識が近いうちに戻るのではないかと、大きな期待を抱いていたようです。しかし……半年、一年と時が過ぎても、昭君は目を覚まさず、やがて君たちの声に対する反応も少しずつ弱くなっていきました」


1986年9月1日からの抜粋

昭の反応は昨日とほとんど変わらない。子供たちが呼びかけても、あまり反応が見られないようだ。そろそろ何か新しい刺激を試してみる必要があるのだろうか……。


1986年9月2日からの抜粋

部屋にテレビを設置し、子供たちと一緒にアニメのビデオを見せてみることにした。昭の脳波は、子供たちの声やビデオの音に反応して、いつもとは少し違う動きを示した。これからさまざまなビデオを試し、その様子を観察していこう。


1986年9月9日からの抜粋

今日はサンタクロースが登場するアニメを皆で鑑賞した。すると昭の脳波が、普段とはまったく違う、不思議な反応を見せた。昭は昔からサンタクロースが大好きだったので、今でもその気持ちは変わらないのだろう。正一郎君もサンタクロースの話が面白いと言い、ビデオを真剣に見入っていた。これからもサンタクロースに関連したビデオや絵本をいくつか試してみても良さそうだ。


1986年9月10日からの抜粋

朝からいくつかの店を回ったが、サンタクロースに関するビデオは見つからず、代わりに別のアニメ作品を購入した。午後から四本のビデオを鑑賞したが、今日のところ昭が特に気に入ったものはないようだ。子供たちはそれなりに楽しんで見ていたのだが……。


1986年9月11日からの抜粋

朝からみんなで仮面ライダーのビデオを鑑賞した。昭の脳波はサンタクロースのときと同じく、特異な反応を示した。無意識ながら興味を抱いている証拠だと信じたい。

他の子供たちも仮面ライダーに夢中で、特に勝久君はすっかり気に入ったようで、皆で見終わった後、もう一度一人でビデオを見返していた。

一方で、亜美ちゃんは怪人が怖いと言って、あまり見たがらなかった。今度は女の子でも楽しめるアニメや映画も用意してあげたい。


1986年9月12日からの抜粋

朝からアニメを鑑賞していたが、途中で正一郎君が一人で「サンタクロースごっこ」を始めた。驚いたことに、昭の脳波は正一郎君がサンタクロースごっこをする声に反応し、そのたびに大きな変化を示した。正一郎君がより楽しくごっこ遊びができるよう、何か工夫してあげたい。もしかすると「仮面ライダーごっこ」も昭に良い刺激を与えるかもしれない。ぜひ試してみたいところだ。


1986年9月18日からの抜粋

昨日、女の子が気に入りそうなビデオをいくつか購入した。その中で、亜美ちゃんはシンデレラをとても気に入り、続けて二回も鑑賞することになった。男の子たちはあまり興味を示さなかったが、昭の反応は意外にも大きかった。昭は心の優しい子だったから、このような感動的な物語も好きなのかもしれない。女の子向けの作品も、今後さらに試してみるつもりだ。


1986年10月2日からの抜粋

これまで様々なアニメを試してきたが、今のところ昭の脳波に大きな反応が見られるのは、サンタクロース、仮面ライダー、シンデレラの三つに限られている。また、子供たちがこれら三つの「ごっこ遊び」をしているときにも顕著な反応が現れることから、昭にとって特別な魅力があるのだろう。


1986年10月5日からの抜粋

昭たちの年齢には少し難しいかと思ったが、今日はみんなで『ルパン三世』の映画を鑑賞した。すると、昭の反応は意外にも大きく現れた。一方、他の子供たちは悟君以外あまり楽しんでいない様子である。悟君は、銭形警部が格好よく見えるらしく、映画を見終えるとすぐに「銭形ごっこ」を始めていた。


1986年10月15日からの抜粋

今日も子供たちは朝から、サンタクロース、仮面ライダー、シンデレラ、ルパン三世のビデオをそれぞれ自由に鑑賞し、飽きると「ごっこ遊び」に夢中になっていた。昭の脳波も、まるで一緒にビデオを鑑賞し、ごっこ遊びに参加しているかのように大きく反応している。このまま昭に良い刺激を与え続けることができれば、今度こそ意識が回復する日も遠くないかもしれない……。


「どうしてなのかは分かりませんが、君たちはサンタクロース、仮面ライダー、シンデレラ、ルパン三世のアニメが特にお気に入りだったようで、毎日のようにビデオ鑑賞と“ごっこ遊び”を続けていました。そして昭君の脳波は、この四つのアニメにだけ強い反応を示したのです。兄は、この刺激こそが昭君にとって最も良い治療になると信じていました。そう考えて、君たちが少しでも楽しく過ごせるよう、様々な工夫を重ねていたのですが……」


1987年2月8日からの抜粋

最近、子供たちはこれまで夢中になっていたビデオにもすっかり飽きてしまったようで、同じビデオを流すと嫌がるようになってきた。他のアニメでは昭の反応がほとんど見られないため、これまで通りサンタクロース、ルパン三世、シンデレラ、仮面ライダーのビデオを、とりあえず映しっぱなしにしている。しかし、様々な作品を試してきた結果、昭が反応を示すのはやはりこの四つだけだ。そして、他の子供たちと一緒に観ている時が最も反応が強い。みんなで楽しく鑑賞することが、昭にとって重要な刺激になっているのだろう。一方で、子供たちの「ごっこ遊び」もめっきり少なくなってしまった。こちらも飽きがきてしまっているのだ……。


1987年2月22日からの抜粋

今日はわずかな時間ではあったが、悟君が久しぶりに「銭形ごっこ」をして、昭を相手に遊んでくれた。昭の脳波は大きく反応し、久しぶりに大好きな遊びを楽しんでいる様子が見られた。どうにかして、子供たちの興味が長く続くような方法を考えなければならない……。


1987年2月23日からの抜粋

今日も子供たちは、いつものビデオを観るのを嫌がり、それぞれ別の遊びに夢中になっていた。昭の脳波に大きな反応はほとんど見られない。昭が気に入りそうなアニメや音楽を、改めて探し出す必要があるだろう。なんとしても昭に刺激を与え続けなければならないのだ。


1987年3月25日からの抜粋

今日も新しいアニメを三本試してみたが、昭の反応はどれも薄かった。ここしばらく様々なアニメを見せ続けているが、大きな反応を示す作品は全くない。他の子供たちも、新しいアニメを静かに観てはいるものの、特に夢中になっている様子はない。明日からは、子供が好きそうな音楽を試してみようと思う。


1987年3月26日からの抜粋

今日は一日中、さまざまなアニメの音楽を流してみた。しかし、昭が反応を示したのはルパン三世の音楽だけだった。悟君も嬉しそうに鼻歌でその曲を歌っていたところを見ると、やはり彼もあのアニメが好きなのだろう。明日はクリスマスの音楽や、仮面ライダーの音楽も探して試してみようと思う。


1987年3月28日 抜粋

朝からクリスマスの音楽を流してみたところ、昭の脳波が強く反応した。その影響か、正一郎君が久しぶりに「サンタクロースごっこ」を始めた。すると、昭の脳波はさらに大きく反応した。正一郎君が毎日のようにこの遊びを続けてくれれば、どれほど良い刺激になることだろう…。


1987年4月9日からの抜粋

今日も新しい音楽やビデオを試してみたが、昭に目立った反応はなかった。子供たちもそれらには興味を示さず、それぞれ好きな遊びに没頭していた。これまでのところ、昭の脳波が大きく反応するのは、例の四つのアニメだけだ。そして、子供たちが一緒になって「ごっこ遊び」をしてくれる時こそ、最も強い反応が現れる。それは分かっている——だが問題は、子供たちがその遊びにすっかり飽きてしまっていることだ。どうすれば、彼らが毎日飽きずに続けてくれるだろうか……?


1987年4月15日からの抜粋

今日は、勝久君に無理やり「仮面ライダーごっこ」をさせようとした。しかし、強引に促したせいで、彼は激しく嫌がり、ついには全く言うことを聞いてくれなくなった。やはり、強制するやり方では駄目だ。どうにかして、子供たちが自分から進んで楽しみ、自然に「ごっこ遊び」を続けてくれるような方法はないものだろうか……。


1987年8月23日からの抜粋

長い間、あらゆる解決策を考え続けてきた。しかし——結局、これ以外に良い方法は思い浮かばなかった。昭を救うためには、もう“やるしかない”…!


西山はそこで日記をめくる手を止め、ゆっくりと顔を上げた。

言いかけた言葉を一度飲み込み、しかし胃の底から押し出すように、搾り出すような声で続けた。

「兄は……二年近く、自分の息子を救いたい一心で、もがき続けていました。必死になりすぎて、正常な判断ができなくなっていたのかもしれません。そして——とうとう医者としても、人としても、決してやってはいけないことを……あなた達にしてしまいました」

一度言葉を切った西山は、苦しそうに深く息を吐いた。そのまま黙り込むのかと思われたが、やがて再びゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「昔から、一部の医師の間では“特定の薬の副作用として、記憶の一部が消えてしまう”という症状が知られていました。近年では、その効果を応用し、重いトラウマを抱えた人々の治療に使える薬の研究も始まっていました。しかし、それはまだ実験段階で、人間に投与できるような代物ではなかった。大学や製薬会社の研究室で、マウスに対して基礎データを取っているレベルのものです。兄は……君たちが毎日、あの四つのアニメの鑑賞や“ごっこ遊び”を続けてくれさえすれば、昭君が必ず回復すると——そんな勝手な確信に囚われてしまっていたのです。そして……副作用として“記憶の消去”が起こるとされていた、その薬を子供だったあなた達に……投与し始めてしまったのです」


1987年9月12日からの抜粋

昨夜、子供たちを寝かせる前に、例の薬を飲ませた。今朝になって、昨日の出来事を尋ねてみたが、どうもうまく思い出せない様子だ。まだ初日なので判断は早いが、ひとまず、期待していた効果は表れているように思う。体調についても、今のところ特に問題は見られない。とはいえ、注意深く経過を観察していく必要がある。

子供たちは短い時間ではあったが、お気に入りのビデオを楽しんでくれた。そして再生が終わると、自然にいつもの「ごっこ遊び」を始めた。昭の脳波も大きく反応し、まるで本当に一緒に遊んでいるかのようだ。

今夜も、子供たちには一錠ずつ薬を飲ませてから寝かせた。明日の朝、また最初に記憶の状態を確認するつもりだ。


1987年9月13日からの抜粋

朝食後、子供たちに昨日のことを思い出させようとしたが、やはりはっきりしない。確かに薬は効いている。昨日と同じビデオを見せてみたが、記憶が消えているせいか、飽きる様子もなく夢中で画面に見入っていた。昭のほうも変わらず、お気に入りのアニメには強く脳波が反応している。昭は、同じものを何度繰り返し見ても飽きることがないのだろうか?もし反応が弱くなってしまえば、また新しく脳波が反応する作品を探さなければならない。どうか今の四つに飽きませんように……。


1987年9月31日からの抜粋

今日で九月も終わる。時間が、あっという間に過ぎていくように感じる。

子供たちは今日も変わらず、お気に入りのビデオを楽しみ、その後はそれぞれが夢中になって「ごっこ遊び」をしていた。昭の脳波は、子供たちの声に反応して大きく揺れ、まるで一緒に遊んでいるかのようだった。一日でも早く昭が目を覚まし、本当に子供たちと遊べる日が来てくれることを、ただただ願う。

今月から始めた薬の投与だが、子供たちの体に異常は今のところ見られない。記憶の消去についても、効果は安定して続いている。


1987年10月15日からの抜粋

子供たちの体調には、相変わらず目立った異常は見られない。

しかし、正一郎君の様子が少しおかしい。昨夜、「トナカイを連れて空を駆け回ったんだ」と真剣な顔で話していた。「ごっこ遊び」の延長なのかもしれないが、語り方がどこかいつもと違う。妙に生々しいというか……本当に経験したことを思い返しているようにも見えた。気にしすぎだといいのだが、何か胸にひっかかる。


1987年10月20日からの抜粋

やはり、正一郎君は「ごっこ遊び」の中の想像と現実の区別ができなくなってきている。今日も、ソリで空を飛ぶ感覚や、風の冷たさ、トナカイの様子まで、細かく語っていた。どうやら彼は、本気で空を飛んできたと信じ込んでいるようだ……。

毎日記憶を消していることが影響し始めているのだろうか?このまま薬を使い続けていいのか……。


1987年10月27日からの抜粋

正一郎君だけではない。他の子供たちにも、空想と現実の区別がつかなくなってきている兆候が見られる。薬の使用は、本来ならすぐにでも中止すべきなのだろう。しかし――昭は、今の子供たちの遊びにしか強く反応しない。ここで投与を止めてしまえば、昭に刺激を与える手段が完全に途切れてしまう。

どうするべきなのか。正しい判断が、もう自分にはできなくなってきているのではないかという不安が胸を締めつける。


「兄は、薬を使ってあなた達の記憶を毎日消去していました。その結果、あなた達は飽きることなく毎日、お気に入りのビデオを見て、そして“ごっこ遊び”に夢中でいられたのです。薬を投与し始めた後も、兄は昭君に刺激を与えようと、様々な方法を試していたようですが、結局、昭君が大きく反応したのは、あの4つのアニメだけでした。どうしてその4つにだけ反応したのかは、兄にもわからなかったようです。もともと昭君が好きだったのか、それとも、皆さんが好きだから昭君も好むようになったのか……。いずれにしても、その後、あなた達は数年間にわたって薬を飲み続け、毎日、同じ遊びを繰り返すことになりました。そして、その影響によって、あなた達が“ごっこ遊び”の中で生み出した空想と現実の区別がつかなくなってしまった――と、兄は日記に記しています。私の考えですが……あなた達は、現実の記憶を毎日消されていたため、失われた部分を自分の空想で埋め合わせていたのだと思います。もちろん、その空想は日々繰り返される“ごっこ遊び”と結びつく。そうして積み重なった数年分の“空想の記憶”が、最終的に――自分達こそが、その物語の主人公なのだと信じ込ませてしまったのでしょう。川島君。あなたは、サンタクロースとして世界中の子供たちにプレゼントを配るため、毎日準備に追われ、クリスマスにはトナカイのソリで世界中の空を駆け回っていました。池脇君。あなたは銭形警部として、世界各地に姿を現すルパン一味を追い、インターポールの一員として日々“正義”のために働いていました。兄にも、どうしてルパン本人ではなく銭形警部を選んだのかは、最後までわからなかったようですが……。鈴鹿さん。あなたはシンデレラとして王子様と幸せに暮らし、お城での優雅な毎日を送っていた。世界中から客人を招いて舞踏会を開き、庭園でティーパーティーを楽しむ……そんな華やかな日々を“本当に”過ごしていたと信じていたようです。今田君。あなたは仮面ライダーとして悪の組織と戦い、世界の平和を守っていました。ライダー2号として、尊敬する1号と共に怪人たちを倒すため、世界中を駆け回っていたようですね。兄の日記によれば――薬によって、日常生活のほとんどの記憶は消えていきました。しかし、自分達の空想と強く結びついた出来事だけは、なぜか頭の中にしっかりと残り続けたのです。たとえば……川島君も、池脇君も、いま外国語をいくつか話せるでしょう?」

そこで西山は、ゆっくりと顔を上げ、川島と池脇を見つめた。

「川島君は、世界中の子どもたちに会うために。

そして池脇君は、ルパンを追って世界中を捜査するために――それぞれ、自分で外国語を学んでいたのです。本来なら、記憶を消されるたびに学んだ内容も失われてしまうはずなんですが、君たちは学んだ外国語を“ごっこ遊び”や空想の中で繰り返し使い続けた。そのため、通常では考えられない速度で知識が定着していったようなのです。」

そう言うと西山は、今度は鈴鹿の方へ顔を向けた。

「鈴鹿さん。あなたも同じです。王国の王女として、そして愛する王子様のために“理想のお姫様”になろうと努力してきた。王族としての作法だけでなく、世界中の料理を学んでいたのでしょう? だから、この喫茶店でどんな料理でも難なく作れたのではありませんか。本当のお姫様なら料理などしないかもしれない。しかし、あなたの中では“自分の手料理を王子様に振る舞う”ことこそ、最も理想的な姿だったのかもしれませんね。」

西山はさらに視線を奥へ移し、今田を見据えた。

「そして今田君。あなたはさまざまな格闘技を研究し、身につけてきましたね。もちろん、悪の組織と戦うためです。毎日のトレーニングと、空想の中で幾度となく敵と戦ってきた経験――その積み重ねが、いまのあなたの力につながっています。いま挙げたのはほんの一部です。他にも、君たちが身につけているものは、どれも驚くほど高いレベルにあるようです。」

西山は淡々と説明を続けた。

その言葉を聞きながら、川島たちはほとんど身動きもせず、ただまっすぐに西山を見つめていた。

「あなた達は、お互いの存在が自分達の空想とそれほどリンクしていなかったので、互いのことを認識できないようです。ですが――池脇君だけは少し事情が違う。あなたは他の三人を“ルパン一味”として空想の中に位置づけていた。そのため、いまでも彼らを認識できているのだと思います。ただ……バラバラに暮らし始めた皆さんが、またこうして自然に引き寄せられるように集まった。それを見ると、消された表面的な記憶ではなく、もっと深い部分――心の奥底では、四人はやはり強く結ばれているのかもしれませんね」

西山はそう言って、軽く頬の辺りを緩めたが、すぐに元の少し悲しげな顔つきに戻った。それから腕時計に視線を落とし、「もうこんな時間か…」と小さく呟く。

「もうすっかり遅くなってしまいましたね。今日お話ししたことは、とても現実とは思えない内容で、すぐには受け入れられないだろうということは、もちろん承知しています。ですが――どうか私を少しの間だけ信用して、また続きを聞いていただけないでしょうか。まだお話しきれていないことがたくさんありますし、皆さんが抱いている疑問にも、できる限り答えたいと思っています。……いかがでしょう?」

西山が問いかけても、四人は誰ひとり反応しなかった。

しばらく沈黙が続いたのち、鈴鹿が小さな声でようやく口を開いた。

「……あの。私は、今日は本当に色々ありすぎて、頭が全然整理できていません。今お聞きしたことを、まだうまく考えられなくて……。もしよろしければ、明日、もう一度お話を伺ってもいいでしょうか?」

西山はその言葉に、胸をなで下ろしたようにほっとした表情を見せた。

「もちろん、構わないですよ。ぜひ、そうさせて下さい。今日は一旦ゆっくりと休んで、また明日の午前中にこのお店で会いましょう。時間は…、10時にしましょうか?」

その時、不意に池脇が低い声で口を開いた。

「……俺は、あんたの言ってることが全然理解できん。自分の記憶のほとんどが空想で、しかもアニメの主人公になったつもりだったなんて……そんな話はあまりに馬鹿馬鹿しい……」

池脇はそうは言ったものの、その言葉はとても弱弱しいものだった。

続いて、今田も重たそうに口を開いた。

「……俺も同じだ。自分が誰かは自分が一番分かっている。他人にとやかく言われる筋合いはない……」

今田の口調にも力強さはなかった。

西山は二人の言葉を聞き終えると、どこか寂しげに小さくため息をついた。

「……気持ちはよく分かります。突然こんな、訳の分からない話を聞かされて、困惑してしまうのも当然です。ただ……それでも、ほんの少しでいい、私に時間をいただけませんか?もう少しだけ話を聞いて、それでも受け入れられないと判断したのなら、そのときは諦めます。あなた達に余計な負担をかけるようなことはしません。ただ……少しだけでいいんです」

池脇と今田は顔を見合わせたが、返事はしなかった。

西山はそれを受けて、川島の方へ視線を移す。

「川島君。あなたは……私の話をどう感じていますか?」

呼びかけられた川島は、ぼんやりとした表情のまま何の反応も示さない。

「……川島君、大丈夫ですか?」

西山が心配そうに問いかける。

川島はゆっくりと瞼を閉じ、軽く頭を振った。それからまたゆっくりと目を開き、西山の顔に焦点を合わせた。

「川島君……?」

「あの……。僕も、あなたの話が……自分にどう関係しているのか、よく分からなくて……。」

そこまで言うと、川島はまた目を閉じ、視線を落とした。

確かに話は聞いていたはずだった。だが、説明が続くうちに、頭の働きが急に鈍くなり、思考が靄の中に沈んでいくように、何も考えられなくなっていた。

川島は、うつむいたまま弱々しい声で続けた。

「色々な話を聞いたはずなんですが……その内容が、なぜか全く頭に入ってこないんです」

そう言うと、ゆっくりと顔を上げ、西山を見つめた。

「川島君、具合でも悪いんですか? 本当に大丈夫ですか?」

西山の表情は、さらに深い心配へと変わっていく。

「ええ……大丈夫だとは思います。でも、今日はもう家に帰って休みたいです。何だか頭が働かなくて……。まだ話があるなら、また今度にしてもらえませんか?」

川島の声には疲労の気配はなかった。

むしろ、その顔には思考も感情も一切浮かんでおらず、空っぽになった器のようだった。自分の心を守るために、頭を働かせることを止めてしまったのだろうか……

「……分かりました。もちろん構いません。それでは、また明日にしましょう。他の皆さんはいかがですか?」

西山は、川島以外の三人へ視線を移す。

誰からも異論は出なかった。

それを了承と見なしたように、西山は小さく頷く。

「では、明日の午前十時に、またここに集まりましょう。」

そう言うと、西山は足元のカバンを慌てて取り上げ、中から四つの小型ビデオカメラを取り出してテーブルに並べた。

「それから……解散する前に、一つだけお願いがあります」

西山は姿勢を正し、落ち着いた声で続けた。

「皆さんは、幼児期の頃から毎日薬によって記憶を消去されたせいで、現実と空想の区別がつかなくなってしまいました。それはもう話しましたね。そして、影響はそれだけではなく、最終的には、薬を飲まなくても睡眠を引き金に記憶が消えてしまう症状が出るようになったのです。兄は、あなた達に薬を飲ませ始めて5年程経った頃から、薬の回数を減らしていき、飲み始めてから6年目には、その投与を完全にやめました。ですが、あなた方の体から、記憶が消失するという症状は無くならず、兄の日記の最後のほうによると、数週間から数ヶ月に1回の割合で記憶が消えてしまうと記されていました。たぶん、今もそれくらいの頻度で起きていると思います。今日の出来事を忘れてしまったときのために、明日の自分へ向けたビデオメッセージを残してほしいのです。見ず知らずの私の説明より、あなた自身の言葉のほうが、明日のあなたにとって受け入れやすいはずですから……」

そう言いながら、西山はビデオカメラを四人の前へ一つずつ置き直した。

そして椅子から立ち上がり、画面の左側へ素早く移動すると、そのまま姿を消した。

次の瞬間——映像が唐突に止まり、画面は真っ暗になった。

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