第10話
その日は朝から、当てもなく商店街を歩き、ある人を探していたの。ある人というのは、以前、私を窮地から救い出してくれた魔法使いのおばあさんだった。
魔法など、今の時代、信じている人などいないかもしれない。私も実際に見るまでは魔法など信じてはいなかった。しかし、目の前で奇跡を起こし、私をお姫様にしてくれた。私の世界を変えてくれた。これはまぎれもない現実だった。
きっと魔法は常に何処かに存在はしている。けれど、それは誰にでも姿を見せるわけではない。純粋な心で奇跡を願った者だけが、その気配に触れることができるのだ――。何もかも失ってしまった今の私には、その奇跡が今すぐに必要だった。魔法で私の愛する王子様を生き返らせてほしい。そして、私達の幸せな生活を返してほしい……。そう思い続け、街の至る所を歩き回り、魔法使いを探していた。
しかし、その切実な思いとは裏腹に、一向に魔法使いは姿を見せなかった。私は体力的にも精神的にも疲れ果て、途方にくれていた。魔法にも、この世界にも絶望しかけていた。
そんな時だった。商店街脇の細い路地を歩いていたときに、とある国の王子様に声を掛けられたのだった。
「お嬢さん、こんなところで何してるの?」
私は不意に見知らぬ人に声を掛けられ、驚きと共に、自分を追ってきた刺客かもしれないと恐怖を感じ、声が出せなくなった。
「どうしたの?そんなに怖がらなくていいよ。」
その男の人は言った。
「あの…、私は…」
建物の影で少し暗くなっており、その男の顔は良く見えなかった。
「この道を行っても、行き止まりだよ。それとも、この先のスナックで働いている子かな?」
「スナック…?何ですかそれは?私は、ただ…、人を探していただけで…」
突然声を掛けてきたものの、その人からは殺意のようなものは感じられなかった。
どうやら私を追ってきた暗殺者ではなさそうだ。
「人探し?それならこの俺が助けてあげますよ。この王子様がね!」
「え…?あなたは…、あなたは王子様なんですか?どちらの国ですか?」
これまで見てきた王族のイメージとは少し違うように思えたが、この人は本当に王子様だというのか。
「んっ?どこの国?そっ、それはまだ秘密だよ。よく知らない人に俺の素性は簡単には明かせないよ」
「そうですか…。そうですよね」
私は、この見知らぬ土地でどこかの王族の方に出会うなんて思ってもいなかったので、少しばかりほっとしていた。
「私も以前はある国の王女だったんです…」
私は何の疑いも持たずに、自分の事を見知らぬ王子様に話していた。
「えっ?王女?ああ、やっぱりねー。すごい美人だから、そんな気がしたんだよね」
「そうですか?どの辺りで気づいたんですか?」
「どの辺って…、あの…、じゃあ、ちょっと、そこの喫茶店で少し話でもしましょうよ。俺の王国の事もそこで教えてあげますから」
そして、私はこの見知らぬ王子様と近くの喫茶店に入った。
これが私と山田王子との出会いだった。
川島は銭形と一緒にアパートへ向かって歩いていた。
だが、不二子の話を聞いてからというもの、自分がどこをどう歩いているのかさえ分からなくなっていた。
夕暮れの風が、どこかの家のカーテンを揺らしていた。それが、やけに遠い世界の景色に思えた。
銭形の話を信用したとすると、不二子には彼氏がいて、その彼氏に暴力を振るわれている。そして、マスクを取ると唇が痛々しく腫れているということだった。
今思い返してみると、まだ少し残暑の残るこの季節に、不二子は肌を全く露出しない長袖の服を着ていた。
川島は透き通る肌に浮かびあがる無数の痣を想像する。
そんなこと、あってほしくない。
けれど、もしそれが本当なら――彼女を放っておくわけにはいかない。あの美しい女性は、気丈に仕事をしている姿の裏で、大きな苦しみを隠していたのだろうか?
「銭形さん…。」
川島が呼びかけると、銭形は少し眠そうな顔を川島に向ける。
「不二子さんは本当に暴力を振るわれているんですか?それは本当に彼氏なんですか?もしかして、何か弱みを握られていて、無理やり付き合わされているとか…」
「そんな風には見えなかったな…。不二子も、あのカエル男といるときは、幸せそうな顔してたから」
銭形は、面倒くさそうにそう答えた。
川島はその言葉が信じられなかった。というか信じたくなかったのかもしれない。
頭のおかしな銭形の言うことなんか嘘に決まっている。心の奥で何度も自分に言い聞かせながらも、胸の奥に冷たい不安がゆっくりと広がっていくのを感じていた。
その後、二人はしばらく無言で歩き続けた。
夕暮れの風が街路樹の葉を揺らし、どこか遠くで子供の声がかすかに聞こえる。音も光も、なぜか非現実的に感じられ、川島は自分の足取りすら定かではないように思えた。
やがて幹線道路沿いのホームセンター岡谷を通り過ぎたところで、銭形は突然立ち止まり、無言で川島の家とは逆の方向を指差した。
「俺は、こっちだ。」
そういうと、さっさとそちらに向かって歩き出した。
「ああ…、それじゃまた。」と言いながら、川島は、車の来ない道路を悠々と横切って渡る銭形の後姿を見送った。
この人にはまた会うことになるだろう。そんな思いに軽く身震いしながら、川島は自分のアパートへと歩き出した。
部屋に戻ると、張りつめていた心の糸がふっと緩んだ。
その瞬間、頭の奥にずしりとした疲れが押し寄せ、全身の筋肉が硬くこわばっているのをはっきりと意識した。目の奥が鈍く痛む。
川島は、無性に湯船に浸かりたくなり、浴槽にお湯をため始めた。
その間、小さな二人掛けのソファに横になってみたが、妙に落ち着かず、かえって体の重さを増したように感じた。
しばらくしてお湯が一杯になり、ぬるめの湯に身を沈めると、ようやく思考が少しずつ澄んでいった。
今日一日の出来事が、ゆっくりと頭の中に浮かんでくる。
これまでの自分は、人と深く関わることをできるだけ避けて生きてきた。だから、今日のように誰かと長く話した記憶はない。それも、自分を漫画の登場人物だと信じている男とだ。さらに言えば、人生で初めての恋まで経験してしまった。
人と関わるというのは、なんと疲れることなのだろう。
世間の人々も、毎日こんな思いをして暮らしているのだろうか?
今になってようやく、自分がこの世界のことを何も知らないままだったことに気づく。
もしかすると、あの銭形もそれほどの変人ではないのかもしれない。
世間の誰もが、あのような一面を少なからず持っているのだろうか——そんな考えが、ふと頭をよぎった。
世界のことも、人のことも、ろくに理解できていない自分が、サンタクロースとして本当に子どもたちに夢や希望を与えられるのだろうか――。
川島は、湯のぬくもりに身をゆだねながら、ぼんやりと子どもたちの笑顔を思い浮かべた。それから、不二子のことを考える。喫茶店でテーブルを拭く彼女の姿が、静かに心の中に浮かび上がる。
自分も、もう少し世の中と関わってみてもいいのかもしれない。
そう思うと、胸の奥のどこかが、さらに温かくなるのを感じた。
風呂から上がると、コップ一杯の牛乳をゆっくりと飲み、体の熱が静まっていくのを待った。
時計を見ると、午後7時の少し前。
少し小腹が空いていたが、料理をする気分ではない。
川島は、戸棚の奥に電子レンジで温めるだけのトマトリゾットがあったのを思い出し、今夜の食事はそれで済ませることにした。
温かなリゾットを食べ終えると、満腹感とともに急に眠気が押し寄せてきた。
面倒ではあったが、歯を磨き、パジャマに着替える。
そして、吸い込まれるようにベッドへ倒れ込むと、意識が薄れていく。
最後の力を振り絞って体を起こし、部屋の灯りを消した。
再び布団に潜り込み、目を閉じた瞬間——
世界が静かに遠のいていった。
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