第3話
部屋の間取りは1DK。一人暮らしには十分な広さで、この暮らしに不満はなかった。ただ、もし一軒家に住めたなら——庭にトナカイの小屋を建てて、あいつをそこに住まわせてやりたい。そんな夢を、ふと思い描くことがある。だが、もちろんそんなことをすれば目立ちすぎる。結局のところ、今のこのアパート暮らしを受け入れるしかないのだ。
以前は、本当に自分の正体を隠す必要があるのだろうか——そんなことを考えたこともあった。もし、自分の正体を明かしてしまったらどうなるのか。まず間違いなく、マスコミが押し寄せてくるだろう。
「いつからサンタクロースをやっているんですか?」
「どうすればサンタクロースになれるんですか?」
「なぜ子供にしかプレゼントを渡さないんですか?」
家のドアを開ければ、そこにはレポーターたちの質問の嵐。連日、自分の行動が監視され、生活のすべてがワイドショーのネタになるに違いない。
そんな想像にうんざりして、結局のところ、正体を隠して生きるのが一番だという結論に落ち着いた。そもそも、サンタクロースが世間に素顔を晒すことなどあり得ない。それが、サンタクロースの掟なのだ。人知れず、子供たちに夢を配りながら生きていく存在なのだ。
川島青年は部屋に入ると、まず窓を開けた。
熱気に包まれていた部屋に、新鮮な外の空気がゆっくりと流れ込んでくる。
それから、台所の小さな冷蔵庫から牛乳を取り出し、流しの上の食器棚からマグカップをひとつ取り出して、静かに注いだ。
真っ白な牛乳の表面を見つめているうちに、ふと頭をよぎる。
「そういえば、去年使ったソリはどこへやったかな……」
そんな独り言とともに、またクリスマスの準備のことが気になり始めた。
この部屋には、いろいろと訳があって数か月前に引っ越してきた。その時、必需品のソリもたしかに持ってきたはずだ。
川島は部屋の中を見回した。だが、当然のことながら、そんな大きなものが部屋のどこにも見当たらない。一応クローゼットも開けてみたが、大きさからして入るはずもなかった。
「どこにしまったのかな……」
小さくつぶやきながら、記憶をたどろうとする。しかし、どうしても思い出せない。
もしかすると、外に置きっぱなしにして、粗大ごみと勘違いされたのかもしれない。あるいは、誰かに持ち去られたのか——。ソリをなくしたなんて、もしトナカイに知られたら、どれだけ馬鹿にされることか。あの嫌味な顔が、はっきりと目に浮かぶ。
「参ったな……どこにしまったんだったかな。」
川島はもう一度つぶやいた。
5分ほどその場で考え込んでみたが、ソリの行方にはまったく見当がつかない。最終的には、紛失してしまったという結論にたどり着いた。
「……ないものは仕方ないか。」
あきらめ半分にそう呟くと、流し台に戻り、ぬるくなった牛乳を一気に飲み干した。
さて、ソリなんてどこで売っているだろう?しかも、プレゼントを運べるような“大きな”ソリだ。このあたりにある店は限られている。おもちゃ屋か、スポーツ用品店か。いや、ホームセンターにあるかもしれない。9月のこの時期にソリが並んでいるとは思えないが……とりあえず近くのホームセンターを覗いてみるか。
川島はそう考えながら壁掛け時計に目をやった。時刻は午前11時になろうとしている。この時間なら、もう店も開いているはずだ。
牛乳を冷蔵庫に戻し、流しでコップを軽くすすぐと、川島はすぐに部屋を出た。
ホームセンターは、先ほど降りたバス停から道路沿いに5分ほど歩いたところにあった。『岡谷』と書かれた巨大な看板は、ずいぶん離れた場所からでもはっきりと見える。この時間帯の駐車場には、まだ数台の車しか止まっていなかったが、休日になると特売品を目当てに町民が大勢集まる人気店だ。
川島は、がらんとした広い駐車場を横切り、一番手前の自動ドアから店内へと入った。
店内は思ったとおり、客の姿はまばらだった。ざっと見渡しても、客より店員の方が多いくらいだ。
来てはみたものの、どのあたりにソリが置かれているのか見当もつかない。とりあえず、店の中を一回りしてみることにした。
店はホームセンターらしく、それなりに広い。日常生活に必要なものは一通りそろっているようだが、ソリがありそうな場所は見当たらない。なんとなく予想はしていたが、さすがの北海道でも9月では、まだ冬物は並んでいないようだ。
「もしかしたら、裏の倉庫にでも昨年の売れ残りがあるかもしれない――」
そんな淡い期待を抱き、川島は近くを歩いていた店員を呼び止めてみることにした。
「あの…、すいません、ソリがほしいんですが…」
「へっ?ソリ?」
パートタイムで働いていると思われるおばさん店員が半笑いで聞き返してきた。
「ソリっていうのは…雪の上を滑る、あのソリですか?」
半笑いはまずいと思ったのか、店員は慌てて表情を引き締め、言葉を丁寧に言い直した。
「ええ、まあ、そうです。そのソリです」
川島は心の中で、やっぱり聞かなければよかったかな、と少しだけ後悔した。
「申し訳ございません。今はまだ、ソリは取り扱っておりません。例年ですと、雪が降り始める少し前に販売を開始いたしますので…」
「倉庫とかにも……ないですよね?」
「ええ、大変申し訳ございません」
店員は丁重に頭を下げた。
川島は肩をすくめ、ここでのソリ探しをあきらめることにした。
出口に向かう途中、川島はおもちゃコーナーをもう一度覗いてみることにした。
サンタクロースにとって、子供のおもちゃトレンドを調査するのは大切な仕事のひとつだ。
ホームセンターなので、さほど種類は多くないが、今年の人気商品は一通りそろっている。週末なら親子連れでにぎわうこの場所も、今は母と幼い娘の一組だけ。二人は並んで棚を眺めながら、楽しそうに話をしていた。
川島は、親子の斜め後ろにそっと立ち、気づかれないように様子をうかがった。
「お母さん、これがほしい」
娘は、動物の人形たちが暮らす大きな家のセットを指差した。
「これは誕生日か、クリスマスだね」
「じゃあ、サンタさんにお願いする」
「うん、そうしなさい。サンタさんはユウちゃんがいい子にしてたら、ちゃんとお願いを聞いてくれるからね」
「サンタさん、いつ来るの?」
「12月24日だよ」
「えー、今日来てほしい」
母親は娘の無邪気な願いに、思わず笑みをこぼした。
そして、優しい声で言い聞かせるように続けた。
「今日は無理だと思うよ。だってね、サンタさんは十二月二十四日の一日しかお仕事をしないんだから」
その言葉を聞いた瞬間、川島の胸がきゅっと締めつけられた。
呼吸が浅くなり、視界が少しずつ暗くなっていく。
そして——忘れようとしていた、あの悲しい記憶が、再び鮮明によみがえってきた。
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