第2話
この青年は20代前半くらいだろうか。顔形はどちらかと言えばハンサムなのだが、その地味な服装のせいで、どこにでもいる普通の青年の印象を与えていた。
いつもなら周囲から注目されないよう細心の注意を払うのだが、今日はついついカッとなり声を荒げてしまった。トナカイのあまりにも頼りない言動に、苛立ちを覚えたのだ。
心の中で渦巻いていた怒りは、トナカイ牧場を離れ、動物園の出口に向かう間に次第に収まっていった。
やや冷静になってくると、感情をコントロールできず大声を出してしまった自分が少し恥ずかしくなる。
牧場の周囲には数人の客がいたようだが、話の内容までは聞かれていないはずだ。子供に夢を与える仕事の立場上、自分の素性は隠し通さなければならない。これはサンタクロースの掟。サンタクロースにはいくつかの厳しい掟があるが、その中でも最も基本的なものが、自分の正体を明かさないということだ。
青年は、長年この仕事をしてきたが、今日ほど迂闊だったことは記憶にない。公衆の前で仕事の話を大声でしてしまうとは…。「もしかしたら、自分の方がトナカイよりも、よっぽど休みボケになっているかもしれない」と気持ちを引き締め、動物園の出口ゲートから外に出た。
花山動物園は、花神楽町の北側、花園山の麓にある。町の中心からは車で30分ほど。周囲は田畑に囲まれ、道路の向こうには小さな食堂とお土産屋がひっそりと並んで営業していた。今はどちらも客の姿はない。
ゲートを出て左手には『動物園前』バス停があり、標柱と小さなベンチが置かれている。時刻表を見ると、町の中心行きのバスはこの時間帯、30分に1本。あと15分ほど待たなければならない。
青年は仕方なくベンチに腰を下ろし、ひと休みすることにした。
太陽は高く昇り、強い日差しが降り注いでいた。しかし今は、山からの優しい風が汗ばんだ首筋をほんのりと冷やしてくれる。なんとも気持ちがいい。
目を閉じ、風の心地よさを味わっていると、どこからか子供達の声が聞こえてきた。
目を開けると、道路の向かい側の歩道に、幼稚園の遠足らしき集団が見えた。少し離れた動物園の駐車場からこちらに向かって歩いているらしい。子供達は大はしゃぎで、引率の先生たちを手こずらせながら、わいわいと横断歩道を渡り、青年の座るベンチの後ろを通って動物園入り口へと入っていった。
青年は、子供達の笑顔を見ていると、何とも言えない喜びが、心の奥底から沸き上がってくるのを感じた。何物にも代えがたい無上の喜びだった。その瞬間、自分の中にサンタクロースの血が確かに流れていることを実感できる。多くの子供達に夢を届ける――今年もその思いが、青年のやる気をさらに満たしていく。
子供達の後ろ姿を見送り、数分後に到着した町中心部行きのバスに乗り込む。青年は、静かに自分の住むアパートへと向かった。
この青年が住んでいる花神楽町は、札幌から60キロほど離れた位置にある。距離的には大都市からそれほど離れてはいないのだが、車窓から見る景色には、どこか時が止まったような、くすんだ空気が色濃く残る町だった。――それには理由があった。
数十年前、町長が「大きな市町に頼らず、自分たちの力で町を発展させよう」と突拍子もないスローガンを掲げ、周りの市町村との連携を拒んだ。その結果、あっけなく町は孤立し、寂れることとなったのだ。もともと何もない小さな町が、独自に発展するなど無謀な話だった。人々も冷静に考えればわかることだったが、町全体の大きな集団心理の渦の中、町民全員が幼稚な夢物語に飛びついてしまったのだ。
もちろん今では、車やバスで大きな市や町とも容易に行き来できるようになったが、依然として周囲との関係が希薄である印象は否めない。
そんな町であっても、ここに住んでいる町民は、この寂れた町を愛していた。バスの窓から眺める街並みや、行き交う人々を見ていると、そのことがはっきりと感じられる。みんな幸せそうな顔で生活をしている。
青年もこの町が好きだった。この町を新たな拠点に選んで良かったと心から思っている。大都市のような娯楽や便利さはない町だが、何不自由なく暮らすことができる。その上、自分の正体が知られてしまうリスクもあまり気にしなくていい。自分の仕事に集中できる理想的な環境と言えるだろう。
30分ほどバスに揺られると、青年のアパートの最寄り停留所に着いた。
バスを降りた青年は、いつものように人通りの少ない道を足早に歩く。
アパートは、停留所から5分ほどの場所にある。
その辺りは一応「住宅地」と呼べる区域で、一人暮らし用の小さなアパートが点在していた。
青年の住むアパートもその一つだ。2階建てで、部屋は6つだけ。ベージュ色のコンクリートの壁に、赤茶のトタン屋根。前には小さな駐車場が並んでいる。見慣れた景色だ。どこにでもありそうで、記憶に残らない建物。
今は平日の日中。アパートにはほとんど人の気配がなかった。みんな仕事などに出ているのだろう。
青年は建物の脇にある外階段を小走りで駆け上がり、2階のいちばん奥にある自分の部屋の前にたどり着いた。
部屋のドアの横に取り付けられた表札には、何も書かれていなかった。
素性を明かすわけにはいかないし、郵便を送ってくる相手もいない。青年には、表札というものがそもそも必要なかった。
もはや自分に名前など不要だとも思っていたが、万が一、誰かに尋ねられるような場面があれば、「川島正一郎」と答えるつもりでいた。自分はサンタクロースだなどと言えるはずもないし、咄嗟に名前が出てこないのは人間社会では不自然だからだ。そんなことを考えて、「川島」なる名前を用意していたが、今のところ、その名前を口にしたことは一度もなかった。
川島は鍵を差し込み、がちゃりと音を立てて回した。
一瞬だけ周囲に視線を走らせると、そっと扉を開け、素早く部屋の中へと消えた。
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