第五話 「定廻り弐番組の総力」
🏮新太郎定廻り控え帳
第五話
「定廻り弐番組の総力」
一. 廻船問屋の鉄則
「のりひょう」の湯気の中で得られた情報に辻風三人組は活気づいた。
「柴田屋勘兵衛は札差の勘定書きを固めて、奉行所の探索を跳ね返そうとした。だが、廻船問屋の裏帳簿は、必ずやどこかに存在するはずだ」
大槻慎吾は居合の達人らしい切れ味でそう断言した。
「問題はどうやってその帳簿に触れるか、だ」
小宮忠七が腕を組む。
小間物問屋は名義貸しであるにせよ、柴田屋の廻船問屋の流通を担う以上、その取引には厳重な管理がされているはずだ。
新太郎は関根丈吉に目を向けた。
「関根さん。廻船問屋の取引の鉄則は何でしょうか」
関根は得意の知識で答えた。
「船の荷は荷主、船頭、受け取り側の三者が確認せねばならぬ。特に、金銭が絡む裏取引となれば、裏の荷為替が必ず発生する。この荷為替こそが、裏帳簿の控えだ」
関根の読み筋は鋭い。
正規の流れではない、不正な金の流れが絡む荷為替は柴田屋にとって最も隠したい証拠に他ならない。
しかし、荷為替の控えは通常、廻船問屋が最も厳重に保管する蔵か船頭が信頼する船宿に置かれる。
どちらも、同心が正面から踏み込めば証拠隠滅を許すことになる。
「強引な踏み込みは、却って柴田屋に付け入る隙を与える」
大槻はこの探索には力ではない、機転が必要であることを理解していた。
二. 白瓜の失策と、仲間への学び
その頃、大八木七兵衛は一人、鳶の二吉に諮(はか)るため彼のねぐらを訪ねていた。
大八木には新太郎の推理が導いた「二吉の二つの顔」への疑念が残っている。
「二吉。深川の廻船問屋の裏で、札差の柴田屋が動いている。何か嗅いだか」
大八木は敢えて正直に尋ねた。
二吉は何もかも見透かしたような目でにやりと笑う。
「旦那。そりゃ、江戸の闇じゃ、金が渦巻く場所に柴田屋の影ありでさぁ。手がかりが欲しけりゃ、盗むのが手っ取り早い」
「盗みはならん。俺の同心としての道理を曲げるな」
大八木は強い口調で釘を刺す。
二吉はそれ以上何も言わなかった。
大八木と二吉の間には、互いの「道理」を尊重する強い信頼と、埋められない溝が存在していた。
一方、新太郎は荷為替を狙うためのある奇策を思いつく。
「荷為替を蔵から持ち出させるのです」
新太郎は小間物問屋の出入りの者になりすまし、廻船問屋の蔵番を騙して荷為替の控えを持ち出させようとした。
小宮の観察眼で得た小問屋主人の癖や蔵番の位置、関根が用意した精巧な偽の印を使い新太郎の優男な容姿が警戒心を解くはずであった。
しかし、この策は新太郎の経験不足によってあえなく失敗に終わる。
蔵番は、新太郎の白い顔とどこか場慣れぬ振る舞いに、一瞬の不信を抱いた。
「兄さん。おたくの蔵には、確か油の匂いが染み付いているはず。だが、あんたの羽織からは、ちっとも油の匂いがしねえ。」
新太郎はその場から逃げ出すのが精一杯であった。
組屋敷に戻った新太郎は悔しさに顔を紅潮させた。
大槻は失敗した新太郎を、叱ることなく諭した。
「白瓜。お前は、頭は切れるが、江戸の匂いを知らなさすぎる。だが、その失敗を必ず次への学びとせえよ」
三. 弐番組、機転の結集
新太郎の失敗は辻風三人組に正面からの策を諦めさせた。
「正面から盗み出すのは無理だ。だが、記録だけは盗めるはず」
小宮忠七が言った。
小宮は、廻船問屋の船宿の夜間の警戒の甘さに目を付けていた。
「船宿の女中を買収し、荷為替を保管している場所の墨の匂いを嗅ぎ出させる。新太郎の優雅な鼻を使えば、その匂いの奥にある、古い紙と墨の質の違いを読み取れるはずだ」
新太郎の「優雅な鼻」と、小宮の「観察眼」が結びついた。
だが、蔵の内部を把握し荷為替を正確に記録するには剣の力が必要である。
「よし。俺が夜、船宿の蔵へ潜入する」
大槻慎吾が立ち上がった。
「その際、荷為替の控えを写し取るための道具が必要だ。関根、お前の出番だ」
関根丈吉は奉行所内で精密な文書を扱う書院番である。
彼はわずかな時間で、大槻が蔵の中で素早く荷為替の控えを写し取るための特殊な薄紙と松脂墨を用意した。
その夜。
大槻慎吾は蔵番を峰打ちで気絶させ、船宿の蔵へと潜入した。
新太郎は外で待機し、微かな墨の匂いの変化を嗅ぎ分ける。
大槻は小宮の指示した場所で荷為替の控えを見つけ出した。
そして、関根が用意した薄紙と松脂墨でそれを素早く、正確に写し取る。
新太郎の「優雅な鼻」、小宮の「観察眼」、関根の「書院番の技」、そして大槻の「剣の力」。
弐番組の総力が初めて柴田屋勘兵衛という巨大な闇に風穴を開けた瞬間であった。
新太郎は長屋に戻ると、直ちに「定廻り控え帳」を開いた。
『四、廻船問屋の裏帳簿の荷為替の控えを写し取ることに成功。
この中に、将軍家慶公の側近への不正な献金が記されている疑いあり。
柴田屋勘兵衛はこの献金により、水野老中の改革を妨害しようとしている。
一件は、幕府を揺るがす大事件へと発展の兆し。』
新太郎の白い顔に奉行所勤めとなった頃にはなかった、強い覚悟の色が宿っていた。
(第五話 完)
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