第四話 「のりひょうの湯気と親父の義侠」
🏮新太郎定廻り控え帳
第四話
「のりひょうの湯気と親父の義侠」
一. 煮詰まる探索と、湯気の誘い
天保元年、秋の長雨が江戸の町を濡らし始めた。
「北町の辻風三人組」
大槻慎吾、小宮忠七、そして関根丈吉は、結成早々巨大な壁に突き当たっていた。
柴田屋勘兵衛の札差としての勘定書きは厳重に閉ざされ、南町のツテを使っても、容易に不正の証拠を掴めない。
柴田屋は元吟味方与力だけあって金で買える武士の弱みを知り尽くし、法の網の目を潜る術に長けていた。
「くそっ。手がかりがまるでねぇな」
大槻は弐番組部屋で苛立ちを隠せない。
居合の達人である彼の剣も、数字と裏工作という闇には届かない。
「大槻の言う通りだ。柴田屋は、貸付先を全て小身の御家人にして一人当たりの借財額を少なく見せかけている。しかし、その総額たるや途方もない」
関根は帳面を前に頭を抱える。
帳簿の数字は嘘をつかないがその数字が指し示す悪意を立証する手がかりがなかった。
新太郎は机の前で三人の議論を聞いていた。
彼の白い顔は、連日の探索で心労の色が滲んでいる。
(武士の不正、悪事、非道……。それを正すには、武士の作法ではない、庶民の視点から見つめ直す必要がある)
新太郎の脳裏に大八木が魚河岸で吐いた「闇から這い出た血の匂い」ではなく、深川のおえんの部屋で嗅いだ「文鳥の餌の穀物の香」が蘇る。
「皆様。少し奉行所の外の空気を吸いませんか」
新太郎はそう提案した。
「腹が減ったな。新太郎、優雅な蕎麦でも食うか?」と、小宮が笑う。
「いえ。もっと、人情の湯気が立つ場所へ」
新太郎が向かったのは深川の岡場所にも近い木場近くの一膳飯屋「のりひょう」であった。
二. のりひょうの湯気と、親父の温情
「のりひょう」の引き戸を開けると温かい湯気と、味噌の香りが一気に新太郎たちを包み込んだ。
店を切り盛りするのは、主人である竹三と看板娘のおろくである。
竹三は若い頃はやくざとして鉄火場を渡り歩いた経験豊富な男だが、今は優しく熱い親父である。
「おう、白瓜殿!こんな雨降りによく来たな。今日はな、竹三のとっておき、大根と鶏肉の煮しめだ!食いな!」
竹三は、新太郎を見ると、親しみを込めて「白瓜殿」と呼んだ。
新太郎はその愛称をこの一膳飯屋では受け入れている。
大槻、関根、小宮は店の隅で静かに煮しめを頬張り始める。
その滋味深い味わいが、連日の心労を癒していく。
店の奥で、キビキビと働くおろくの姿があった。
鉄火親父の竹三とは違い幼い頃に家を出ていった母親の代わりに店を切り盛りするしっかり者である。
そして、新太郎に、密かに淡い恋心を抱いている。
「新太郎様。お疲れのようですね。熱いお茶をどうぞ」
おろくは、新太郎にそっと湯呑みを差し出した。その気遣いが、新太郎の胸を打つ。
「おろくさん。この煮しめの味は、まるで実家を思い出すようです」
「お父つぁんが朝から丹精込めて煮てますからね。土の中の根菜は、煮れば煮るほど味が染みるんですよ」
新太郎は、その言葉に、はっとした。
(土の中の根菜……)
新太郎は竹三の鉄火な人柄と店の温かい空気の中に何か事件の糸口があるのではないかと直感した。
「竹三さん。店の客でここ最近、金回りがよすぎる御家人はいませんか」
新太郎が単刀直入に尋ねると、竹三は黙って煙草盆を叩いた。
「白瓜殿。俺は元やくざだ。人の裏側には詳しすぎる。だがな、同心に売るような義理は持ち合わせてねぇ」
竹三は顔を伏せる。
しかし、おろくが、父の背中に向かって小さく声を上げた。
「お父っつぁん!本当にそれでいいのかい!あの、金貸しの嫌がらせがあったとき、新太郎様が助けてくれたんだよ!」
竹三は黙って顔を上げ、新太郎を睨みつけた。
その目には元ヤクザの鋭さと、娘への愛情、そして義侠心が渦巻いていた。
三. 裏帳簿を覆い隠す者
竹三は重い口を開いた。
「御家人じゃねぇ。だが、この辺りの小間物問屋が、急に羽振りが良くなった。そいつがな、最近、深川の岡場所にある廻船問屋の荷をさばくようになったんだ」
廻船問屋。それは、柴田屋勘兵衛が持つ、巨大な事業の一つである。
新太郎は、直ちに関根丈吉に目配せをした。関根は、新太郎の言葉を聞き逃すまいと、耳をそばだてている。
「その小間物問屋の主はこの深川の岡場所から廻船問屋の荷をさばいている。だけどもよ、その小間物問屋はどう見てもその仕事に見合うだけの店構えじゃねぇ。きっと、誰かの名義貸しだ」
竹三は、小間物問屋の具体的な場所を教えた。
「白瓜様よ、その小間物問屋は前に柴田屋勘兵衛に金で雇われていたという噂の御家人の懐刀なんだよ。廻船問屋の荷をさばくことで正規の流通とは違う別の帳簿を作っているに違いない」
新太郎は柴田屋勘兵衛が札差の勘定書きとは別に、廻船問屋という別事業を使って、裏の金を隠しているのではないか、と直感した。
大槻はその小問屋の名前を聞き、思わず膝を叩いた。
「そこだ!廻船問屋の流通を調べれば、柴田屋が金で囲っている上役たちへの不正な金の流れが必ず掴める!」
新太郎は、おろくの差し出した温かい茶を飲み干し、深く頭を下げた。
「竹三さん、おろくさん。有難う御座います!」
一膳飯屋「のりひょう」の湯気の中で得られた庶民の情と情報が、奉行所内の調査では決して届かなかった柴田屋勘兵衛の裏帳簿への突破口を開こうとした瞬間であった。
新太郎は長屋に戻ると、直ちに「定廻り控え帳」を開いた。
『三、一膳飯屋「のりひょう」主人竹三の提供情報により、豪商柴田屋勘兵衛が廻船問屋の別事業を用い、不正な金の流れを隠している疑い。辻風三人組による探索の方向を、札差の帳簿から、廻船問屋の裏帳簿へと転換す。』
新太郎の筆は、迷いなく書き進められていく。
彼の「控え帳」は、着実に江戸の闇を記録し始めていた。
(第四話 完)
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