chapter1灰色の声
episode1
方舟「ルミセル」の最上層にある居住区画。人々はこの時間帯の空を、地球の記憶を模したロマンチックな夕焼けだと褒め称えるが、孤独な少年——フェイラー・リュウオウにはどうも綺麗な色だとは思えなかった。
彼に言わせてみれば、この脂っこくしつこい色はネコが吐き出した嘔吐物のようだった。かと言って彼が実際に本物のネコという生物を見たのは、財閥との食事会でのみだったが、全てのネコが赤い身のサカナを食べるとは限らない。
ただ言えるのは、人工的に作られた夕焼け空は、どこか感情に欠けていて、決して好きになれない。
リュウオウは、訓練施設内の簡易な縦式睡眠ポッドの中で休憩を取っていた。睡眠ポッドには様々な機能が備わっており、体調が優れないときに、特殊な電波で疲労物質をデトックスしてくれる。
ポッドのモニターには、1月10日、17時8分という数字が示されている。
この地球を模した日付けと時間帯が意味することは、彼が預けられている予備校での毎日行っている基礎訓練が既に終了しているということだ。
総司令の令息、方舟の軍事を司る「フェイラー」家の名を継ぐ唯一の跡継ぎは誰よりも優秀でなければならない。
だがそんな周囲の期待とは裏腹に、彼は今日の訓練中に倒れたのだ。再び。
生ぬるい涙が、ポッド内の重力床に吸い込まれる前に、頬からこぼれ落ちる。
なぜ泣いているのか、彼自身にも分からなかった。だが、ここで誰かに見られるのはまずい。
すぐに涙を拭い、震える手でポケットから小さな薬箱を取り出した。蓋には図形のような言語で商栄製薬という文字が書かれ、そのロゴとなる歯車のマークが刻印されている。
この薬を飲まなければ、体の奥から正体不明の熱が湧き上がり、思考が焼き切れてしまいそうになるからだ。幼い頃から、この白い錠剤だけが彼を繋ぎ止める命綱だった。
慣れた手つきで薬を飲み込み、数分後、波が引くように火照りが収まったのを確認して、ポットから身を起こした。
毎日決められたスケジュールで、決められた道を歩まなければならない。それが彼に課された人生で、それを拒む余地なんてない。泣きべそなんて掻いても笑われるだけだろう。
リュウオウは、予備校の学習モジュールへと向かう。例え基礎訓練は終わっていても、基礎学習のルーティンが残っている。本来クラス単位で講師が付くものだが、彼は病弱な体質のせいで、AIと一対一の特別補習となることが多い。
生成された電子デスクに座ると、即座にオープンAIの
「こんにちは、フェイラーさん。 体調は良くなりましたか?
では本日の基礎学習を開始いたします。
最後となりましたので、アナタの父君、総司令官の功績に関するシミュレーション演算及び復習を開始します。
準備はよろしいですか?」
「はい」
「アナタを独立した艦隊と仮定します。
3時間後には敵艦隊が接近します。
『
リュウオウは集中力を高め、淡々と答える。
「
当時の分布図を描いたモニターに、リュウオウは艦隊の画像を黒く塗りつぶされたエリアに移す。
この学習は、彼の父が過去の大戦で成し遂げた、
その実績により父は「闇夜を越えし英雄」とも謳われ、ルミセルを今も動かしている技術的根幹となる。
けど、彼はこの質問をされるのがぎこちない。
それは、自分がその偉大な功績の影で、ただの落ちこぼれであることを見せつけられているような気がするからだ。
「シミュレーションの回答に同意します。
では、次の質問です。
方舟同士の移動について、方舟Aと方舟Bそれぞれの速度が違ったとします。 両者における運行速度による時間差は、具体的にどうなりますか?」
この質問は、リュウオウの興味を引く。
これは、物理学でいう特殊相対性理論の基本的な問いだ。方舟のような超光速領域を航行する巨大構造物においては、時間と空間の認識が、停止している者と高速で移動している者とでズレる。
「方舟AとBが慣性を共有していない場合、移動速度によって時間の流れに差異が生じます。もしBがAよりも速く移動をすれば、方舟Bの時間が、方舟Aから見て遅く進むことになります」
よし、上手く答えられた。と、彼は何度もこの知識について聞かされているため、模範的な答えを暗記することができた。
他にもいくつかの問題を提起されたが、リュウオウはどれも流暢に答えた。宙に浮かぶパネルをなぞる動きに淀みは無く、その回答もAIが期待する「最適解」から逸脱していなかった。
背後から、誰かに思い切り体当たりされた。体が浮き上がり、デスクに強く打ち付けられる。
「これはこれは、サボり魔のフェイラー・泣き虫さんじゃないか。どうせ今日も一日ポッドの中でお眠りしてるんだろう?」
リュウオウを突き飛ばしたのは、予備校の施設長のドラ息子だ。彼は、はけ口を見つけたように険悪な笑みを浮かべ、何人かの悪友たちを連れている。
「……すみません」
リュウオウは軽く謝り、急いでその場から立ち去ろうとした。笑われるのは承知の上だが、ここでひどい目に遭うのはごめんだ。
「おい。 このオズモンド・フレックにわざとぶつかって、それだけで済むと思ってんのか?」
リュウオウは目線を地面にそらし、言葉が詰まる。多くの者に囲まれ、プレッシャーを感じていた。幼い頃から、訓練成績が振るわない自分は、常に父の威光に頼る脆弱な存在だと自覚している。
目の前でおろおろと、抵抗しないふりをするリュウオウに腹が立ったのか、フレックはさらに煽った。
「謝れよ! この隠し子が!」
「オレは隠し子なんかじゃない!!」
普段、見下されても不必要な喧嘩を避けていたリュウオウだが、この言葉だけは耐え難い誹謗中傷だった。世にも名の知れた英雄が公から隠してきた存在であることを、彼は最も付けられたくない「ラベル」として拒絶していた。怒りが全身を駆け巡り、脳が熱くなる。
リュウオウは思い切ってフレックの襟を掴みかかったが、フレックはあっけなくあくびを返した。
「やっとやる気になったか? ならこっちからもお返しだ!」
フレックは、リュウオウの下腹に鋭い膝蹴りを当てつけた。
鈍い音が響く。
通常なら息が詰まり、激痛でうずくまるはずだ。しかし、リュウオウの表情は一瞬歪んだだけで、声一つ上げなかった。
フレックはさらに一蹴り。それを機に、他の子分たちも続いて暴力行為を始める。彼らは手さえ使ってこない、ただ足で蹴ったり、言葉で嘲笑ったりする。
痛ければ、叫べるのだろうか。
苦しければ、助けを呼べるのだろうか。
リュウオウは頭に手を当て攻撃をかばうが、衝撃はただ鈍い振動として体を通り抜けるだけで、喉の奥から悲鳴がせり上がってくることはない。
まるで、自分の中身が空洞で、どんなに叩いても音が響かない壊れた楽器になったようだった。
彼は振り注がれる暴力に手出しもできず、ただそれを受け入れているように見えた。
逃げるな。迎え撃つんだ。早く!
心の中では繰り返すが、反撃をしようと力を入れても、何かに抑えられたように力が抜ける。基礎訓練さえまともに受けられていない彼の軟弱な体では敵に敵うはずがない。
しかし、フレック本人を除き、他の仲間たちは次第に不気味さを感じ始めていた。
「なんで……声を出さねぇんだ?」と、一人が呟く。
リュウオウは息一つ乱さず、ただ顔を覆っているだけだった。彼の身体にはあちこちアザができていたが、少年らが思ったように泣きわめくどころか、うんともすんとも言わない。
痛みに対する微動だにしない反応。
彼には、暴力による「衝撃」は伝わる。
体が宙に浮く感覚、骨に響く振動は感じられる。しかし、そこに「痛み」という脳の警報が鳴らない。
いつからだろうか?
少なくとも物心ついた頃から彼はそうだった。
だからこそ、病弱な体質でありながら、周囲の痛みに苦しむ者を見て、「自分はどこかおかしい」ことを心の片隅に置いてきた。
喧嘩には勝てないが、一瞬の隙を見て、彼はなんとか暴力集団の中から脱走する。
逃げながら、リュウオウは殴られた脇腹が、肉体的な熱や痛みを一切発しないことに、かえって嫌な違和感を覚えた。
彼の体は、衝撃を単なる冷たい振動として頭に伝えている。神経回路に伝わるこの無機質な感覚こそが、追ってくる足音よりも恐ろしい現実だった。
通路の先の壁に反射した足音の残響が、やがて鋭く大きくなった。
もう、角を曲がって彼の姿を視界に入れるまで、あと数秒もない。背中から迫る彼らの荒い息遣いが、空間の冷気をわずかに揺らした。
追い付かれる。
そう思った矢先に——
「なにしてんだおめぇら!」
力強く野太い声を発したのは、チェック柄のスカーフが象徴的な軍人だった。彼の軍服にはいくつもの勲章がついており、階級が高いことを示している。そんな誇り高き軍人が身だしなみも気にせず手荷物さえ放り出して突っ走ってくるのは軍隊の中でも彼だけであろう。
「ギランおじさん!」
逞しい姿を目にしたリュウオウは急いで叔父のもとへ飛びこんだ。軍人が心配そうに甥の様子を見てみると、体中に痛々しいあざができていた。
「おいおめぇら! 先にこいつを殴ったのは誰だ⁉︎」
怒鳴る叔父に対しフレックたちは慌てふためく子羊のように小声を漏らし、先ほどとは真逆の臆病さを曝け出す。
まさか大人が現れるとは少年らは思いもしなかった。普通の大人ならまだしも、この「大将軍」の副官を怒らせたら無事に帰れる見込みが無い。
今まで幾度も隠れて標的にちょっかいを出したが、一度も彼の親から教訓を受けることはなかった。
それが原因なのかフレックたちはいつまでも調子に乗っていた。
怯える少年らの様子を見て、ずっと黙っていたリュウオウは笑おうともせず、その反対に全員が思いもよらない言葉を口にする。
「違うんだギラン。 オレたちはただ遊んでいただけで……ほら、オレが勝負に負けたからこんな目に遭っちゃって……
だから、ごめん! 許して……」
フレックは驚愕した目で敵対者を見つめるが、リュウオウは返事をするようにアイコンタクトを交わした。
膠着した場面の中、悪さをした少年らは部屋の入り口から上品な正装を身にまとった中年男性が訪れたことに気付き、一斉に頭を下げる。
「これはファンザ補佐官。 うちのドラ息子がまたとんだ迷惑をおかけしたようだ。 このオズモンド・ヒルゼの顔を立てて、どうか許してやってくれ」
ヒルゼはこの施設の管理者であり、資源物流網を手がけるオズモンド家の現当主である。長年一家の総管轄を務めてきた彼は対人関係に優れている。
甥の意外な返事に加え大人物までが謝罪してくれた面子を見て、ギランは気に食わなさそうに子どもたちを追いつめることを諦めた。
「はぁ、分かった。 今回は良しとしてやるからさっさと家へ帰れ。 もう二度とこんな事をすんなよ」
少年らは怯えながら、「被害者」が「加害者」である自分たちを庇った理由すら知らずに素早く去っていった。
「この事情については私から将軍に謝っておく。 迷惑をかけてすまない」
ヒルゼは穏やかな口調で挨拶を交わしたあと、軽くリュウオウの肩をたたいてから息子を連れて立ち去ろうとする。
その手つきは、父親のように温厚で、気遣わしげだった。
「それにしても、顔色が優れないな。リュウオウ君」
「あ、はい……少し、貧血気味で……」
「いかんな。亡くなられた令母に似て、君は体が弱い。
私が手配した『薬』は、ちゃんと飲んでいるかい? あれは特別製だからね、欠かさず飲むんだよ」
「はい、ありがとうございます……ヒルゼおじさん……」
「君の健康こそが、我々にとっても宝だからね。じゃあ、また」
ヒルゼは柔和な笑みを残し、不満そうな息子を連れて立ち去った。
リュウオウは、その背中に小さく頭を下げる。
フレックはいじめっ子だが、その父親のヒルゼは、亡き母のことも知っていて、こうして持病まで世話してくれる数少ない「味方」だ。だからこそ、余計にフレックとの関係がこじれるのが辛かった。
施設が再び静寂を取り戻すと、ギランはしゃがんで優しくリュウオウに問いかけた。
「なんであいつらを庇ったんだ? おじさんが懲らしめてやってもいいんだぞ」
「だって……今回おじさんが手出ししても、その次、その次の次はどうするんだよ。 オレはもう子どもじゃないんだ。 それくらい自分でどうにかしないと。それに……」
リュウオウはしばし経ってから返事をした。
「ほら……オレをどう殴ったって痛くないよ」
またしても意外な返事をもらったギランだが、13年も甥の成長を見届けてきたのだから、すぐにその思いを見抜いた。
「そうか……これでもお前がチビの頃から見守ってきたんだが、もうすっかり大きくなってるな。 でも今はもっと頼りにしていいんだぞ。 それに、お前の体質は俺が一番よく知ってる」
リュウオウは黙ってしまった。
彼の病弱さをオジも知っている。
「将軍の子」として少しでも優秀な一面を見せれば、誇り高き父に恥じをかかせることもなかったのに。少しでも強く育っていれば、人からいじめられずに済んだのに。少なくとも、痛みを感じない点だけは彼の慰めになるのは、なんという皮肉なのだろう。
甥が落ち込んでしまったことに気づいたのか、ギランは先ほど手放した荷物から秘密兵器を取り出した。
「ほれ見ろ! お前がずっと欲しかった『ゴーストフレーム』ってヤツだ! 誕生日にしては少し早いが……こういうのをいじるのが好きなんだろう?」
少女を描いた箱の中に眠ってあったのは精巧なパーツ類であった。
「限定版少女型ユニット
「なぁに。 なんせ今日からお前もこんなトコとおさらばするからな。 そのお祝いだ」
「ありがとう、ギランおじさん」
「昔はもっとこう殺伐としていたのに、最近のオモチャは精巧なんだな」
彼は改めてプレゼントのパッケージを見つめ、感心する素振りを見せる。
「……にしてもンなカワイ子ちゃんがタイプだったとはぁ、将来のお嫁さんにでもするつもりか?」
少年の顔はかぁっと赤くなり、全力で否定しようとした。その反応っぷりが面白くてしょうもないのか、ギランは「冗談冗談」と彼の肩を叩きながら笑いが止まらなかった。
「もう、からかわないでよ……おじさんだって、またこっそりタバコ吸ったでしょ?」
リュウオウは唇を尖らせて抗議でもするかのように、彼の服に染みついた匂いに小言をこぼす。
いつの時代になっても、ニコチンを含んだ快楽物質は存在を抹消されることはない。それが、体を犯す慢性的な毒物だと周知されていたとしても、人によっては簡単にその虜となってしまう。
「い、いやぁ! これはだなっ、同僚が吸った煙が移っただけで……」
軍人はぎくっと眉を引きつり、ごまかそうとする。
「おじさんと『体に悪いからやめよ』って約束したでしょ? この匂い、おじさんが好きだったやつだよね? それに……父さんにも叱られるよ」
銘柄を突きつけられたギランは、バツが悪そうに頭をガシガシとかいた。
「くっ……い、一本だけだ! イライラしてたらつい……頼むからシャウドに言わないでくれよ? なっ!」
言い訳をしながらも、ギランの表情はどこか緩んでいる。
彼はいつもそう、例え誕生日でなくとも、顔を合わせる機会があればなにかしらのサプライズを用意してくれる、優しいオジだ。たかが父の友人であっても、いつも必要以上に気遣ってくれる。
恐らく、リュウオウは実の父親よりも、血のつながりのないオジの方に、よほど親しみを感じている。
小さい頃、発作がひどくどうしよもなくなった時、そばに付き添ってくれたのはいつもオジか、オープンAIを搭載したロボットだったから。
もし実の親が彼だったらいいのに。
そう思うことが何度もある。
——タバコがやめられないことを除いては。
「ああそうだ」
軍人は世間話を終え、話題に出てきた男の存在から向かいにきた理由を思い出し、口にする。
「シャウドが帰ってきた。 確かお前の進路がどうのこうの言ってたな」
「父さんがオレに?」
それはあまりにも意外なことだった。
自分が他人との素質の差が出て以来、父とはあまり顔を合わせなくなった。特にこの一年、父は多忙で一目も会っていない。
例え年を越すめでたい日であっても、彼は一言も伝言を残さなかった。
新年の次に迫る大きなイベントがあるとすれば、彼の誕生日である。だが、父がそんな悠長な祝い事をするためにわざわざ顔を合わせてくれるなんて、どうも彼には想像がつかなかった。
自ら会いたいと言い出したのは、きっと他に特別重要なことがあるに違いない。
喜びや不安の気持ちが湧き上がったまま、少年は歩みを早めた。
次の更新予定
2026年1月12日 19:07 3日ごと 19:00
灰色の方舟ーThe Gray Arkー 星龍エト @etoilefeilante
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。灰色の方舟ーThe Gray Arkーの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます