第25話 偽りの平穏と嵐の予感

 その日、ファビウス邸は、主である宰相ギデオンが醸し出すいつもの厳格な空気とは違う、うわついた空気と、そして砂糖を煮詰めたような、甘ったるい香りに満ちていた。

 義弟ノエルが友人たちを招いての、『サロン』が催される日であったからだ。

 だが、それは名前ほど大層なものではなく、彼の取り巻きである二人の貴族子息を招いての、ささやかなお泊まり会に過ぎない。だが、みえっ張りな義弟と、それを盲目的に溺愛する義母にとっては、ファビウス家の権勢と財力をこれ見よがしに誇示するための、一大行事であるらしかった。


 ルーカスは父ギデオンから、事実上の軟禁を命じられていた。

 朝、執事のウォルターを通して届けられた命令は、簡潔で、そして冷酷な響きを持っていた。

「ノエルの客人の目に、お前のような出来損ないの姿を晒すことは、ファビウス家の恥だ。会が終わり、客人が帰る明日の昼まで、自室から一歩も出るな。食事は使用人に届けさせる」


 抗議の言葉など、浮かびもしなかった。

 ルーカスはただ静かに「承知いたしました」とだけ答えると、自室の窓辺にある古びた椅子に、深く腰を下ろした。

 今のルーカスにとって、下手に逆らって面倒事を増やすよりも、この子供じみた茶番劇が静かに過ぎ去るのを待つ方が、はるかに賢明な選択であった。兄からのあの不可解な警告。そして、自分のすぐそばで起きた、血生臭い襲撃事件の記憶。それらが、鉛色の重い雲となって、彼の心を、じっとりと覆っていた。

(どうか、これ以上、何も起きませんように)

 ルーカスは、もはや有翼の獅子にすら届かぬであろう、無力な祈りを、心の内で繰り返すしかなかった。


 窓の外、陽光が降り注ぐ屋敷裏の庭では、夜のサロンに先駆けて、子供たちだけの贅沢な昼餐会が開かれていた。

 その主役はもちろんノエルである。今日の彼は、金糸で刺繍された新品のベルベットの上着を身につけ、まるで小さな王様のようにふんぞり返っている。そして彼の両脇には、まるで忠実な家臣のように、二人の少年が座を占めていた。

 一人はリチャード。繁栄派に属する、羽振りのいい伯爵家の次男坊だ。彼はノエルの言葉一つ一つに、大げさなほどに頷いて見せ、常に相手を持ち上げる言葉を探している。だがその瞳の奥には、自分より愚かなノエルを巧みに操ってやろうという、計算高い光が揺らめいていた。

 もう一人はピーター。気弱そうな子爵家の三男坊で、いつもリチャードの後ろに隠れるように、背を丸めて座っている。彼は豪華な食事にもほとんど手をつけず、ただ、二人の顔色を窺うように、ひきつった笑みを浮かべているだけだった。

「すごいじゃないか、ノエル様! こんなにすごいお菓子、王宮の晩餐会でも見たことないぜ! さすがは宰相閣下のご子息だ!」

 リチャードが、まるで舞台俳優のように、身振り手振りを交えて賞賛の言葉を並べ立てる。

「当たり前だろ! なんたって、僕のサロンだからな!」

 得意満面に胸を張るノエルに、ピーターがか細い声で、おどおどと相槌を打った。

「う、うん……すごい、ね……異国のナッツをクリームにしちゃうなんて、初めて、見た、かも……」

「だろ! 後で父上に頼んで、お前の家にも少し分けてやってもいいぞ!」

「ほ、ほんと!? あ、ありがとう、ございます……ノエル様」

 ピーターの顔が、ぱっと明るくなる。リチャードはそんな二人のやり取りを、どこか面白がるような、冷めた目で見つめていた。


 ルーカスはその光景を、何の感情も浮かべぬまま、ただ窓ガラス越しに眺めていた。

 食べ散らかされたクリームが、純白のテーブルクロスに無造作に擦り付けられる。飲み残しの果実水が、芝生の上にわざとらしくひっくり返される。ノエルの歪んだ優越感を満たすためだけに、高価な食材と、使用人たちの労力が、ただただ浪費されていく。


 やがて、その菓子にさえ飽き足らなくなったらしい。

 リチャードの目が、ふと、色鮮やかに咲き誇る庭の花壇へと向けられた。

「なあ、ノエル様。あの花、すげえ綺麗じゃないか? あんな珍しい花で花冠を作ったら、きっと英雄みたいに見えるぜ!」

 その言葉は、ノエルの新たな自尊心をくすぐるには、十分すぎた。

「おお、いいな、それ! おい、お前ら!」

 ノエルは、遠巻きに控えていた侍女たちを顎で指図すると、甲高い声で叫んだ。「あの花を、全部摘んでこい! 僕が、一番すごい花冠を作るんだ!」

 侍女たちが、「しかし、旦那様が大切にされているお花でございます……」と躊躇するのを、リチャードは鼻で笑った。

「はっ、何を言ってるんだ? この庭のものは全部、未来の宰相閣下であるノエル様のものだろうが! なあ、ノエル様!」

「そ、そうだそうだ!」

 勢いづいたノエルとリチャードは、自ら花壇へと駆け寄ると、「えーい!」「やー!」という歓声と共に、そこに咲く花々を、根こそぎむしり取り始めた。赤、黄色、白。庭師が丹精込めて育て、そしてしばらく前にはルーカスが、冬の間に傷まぬよう、霜よけの藁を敷いてやっていた、あの花々であった。

 ピーターだけが、その場で狼狽したように立ち尽くしていたが、リチャードからの「おい、ピーター、何やってんだよ!」という鋭い視線に射抜かれると、びくりと肩を震わせ、泣き出しそうな顔で、おずおずと一本の白い花の茎に手を伸ばした。


 ルーカスはその光景の全てを、ただ冷めた瞳で見つめていた。

 憎い義弟と、その友人たち。

 だが、そのあまりに無邪気で、愚かで、そして無分別な破壊行為に、ルーカスはもはや、憎しみよりも先に、一抹の憐れみと、漠然とした、しかし確かな不安を感じずにはいられなかったのだ。

(……僕は、あれが欲しかった)

 ルーカスの脳裏を、遠い昔の、叶わなかった願いがよぎる。

 学友を家に招き、共に笑い合う。そんな、貴族の子息として当たり前であるはずの光景。それを、自分は一度も許されることがなかった。自由というものを、与えられることがなかった。


(……でも)

 ルーカスは、窓の外の光景に、再び目を戻す。

(あれは、僕が欲しかった自由なんかじゃない)

 ノエルたちはただ、与えられた豊かさの上で、何も生み出すことなく、ただ美しいものを破壊し、その刹那的な快楽に酔いしれているだけだ。その先に何があるのかも知らずに。与えられすぎたがゆえに、本当に大切なものの価値が、何も分からなくなってしまっている。

 ルーカスは、たとえ相手がどれほど憎い存在であろうと、彼らが自らの愚かさの果てに、破滅へと突き進んでいく姿を、ただ「ざまあみろ」と、手を叩いて喜ぶ気には、どうしてもなれなかった。それは、ルーカスがこの家で受けた、理不尽な虐待に対する、ささやかで、そして最も気高い、精神的な勝利の証であったのかもしれない。


 ルーカスは窓から目を離して別のことを考えようとしたが、徒労に終わった。

 何か、決定的に悪いことが起きる。

 あの無邪気な破壊の衝動が、やがてもっと大きくて、もっと取り返しのつかない何かを、壊してしまうだろう。

 その確信にも似た予感が、まるで雨を待つ暗雲のように、彼の心を、重く、重く、覆っていくのであった。


 そして少年たちの無邪気な冒険は、この屋敷に眠る決して触れてならぬ災厄へと、その手を伸ばしたのである。

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