第26話 開かれた禁断の扉

 夜が、その深い帳を屋敷の上に下ろしきった頃であった。外の風すら息を潜めたように、屋敷は深い闇に沈んでいる。

 豪華な夕食と、他愛ないゲームに満ちた、子供たちのための『サロン』は、表向きには終わりを迎えていた。侍女たちが眠る前のミルクを運び終え、分厚いドアが固く閉じられた、ノエルの豪奢な子供部屋。その中で三人の少年たちは、まだ目を爛々と輝かせ、視線を交わしていた。

 彼らは、いい子でベッドに入る気など、さらさらなかったのだ。

 部屋の中央に置かれた小さなテーブルの上で、ランプの炎だけが、まるで共犯者のように、ゆらゆらと揺らめいている。その微かな光が、これから始まる禁じられた冒険を前にした、少年たちの興奮と不安に満ちた顔を、ぼんやりと照らし出していた。

「……本当に、やる、の……?」

 ピーターが、シーツを胸元まで引き上げ、震える声で尋ねた。

「当たり前だろ!」

 そのか細い不安を、リチャードがせせら笑うかのような、力強い声で一蹴した。

「ここまで来て、尻込みするのか? ピーター。それだからいつまで経ってもお前の家は、子爵のままじゃないか」

 その言葉には、身分の低い者を侮蔑する、貴族特有の傲慢さが滲んでいる。ピーターは、その無遠慮な指摘にぐっと言葉を詰まらせ、悔しそうに下唇を噛んだ。


 リチャードはそんなピーターには目もくれず、今度はこの冒険の主役へと、甘やかでいながらどこか悪魔めいた囁きを吹き込んだ。

「なあ、ノエル様。宰相閣下のご子息で、この屋敷の未来の主である君が、書斎にある『お宝』の一つや二つ見たって、誰も罰など与えやしないさ。むしろ、それは君に与えられた、当然の権利じゃないか?」

「……そ、そうだよな!」

 ノエルの単純な自尊心は、その言葉でいとも簡単に燃え上がった。

「父上の物は、僕の物だ! 僕が父上の部屋に入ったって、いいに決まってる!」

 恐怖よりも、冒険心と自己顕示欲が上回った瞬間であった。

「よし、行くぞ!」

 ノエルのその一声で、三人の小さな探検隊は音を立てないよう、そっと部屋を抜け出した。


 分厚い絨毯が敷き詰められた廊下は、全ての音を吸い込み、まるで深海のように静まり返っていた。

 時折聞こえる、遠くの大時計が時を刻む、重く規則的な音。壁に飾られた、歴代のファビウス家当主たちの肖像画。その描かれた瞳が、まるで生きているかのように、闇の中で三人の愚かな侵入者たちを、じっと見つめているような気がした。

 やがて彼らは、ひときわ大きく、そして荘厳な彫刻が施された厚い木の扉の前へとたどり着いた。

 宰相ギデオン・ファビウスの書斎。

 この屋敷の権力の心臓部であり、そして、決して子供が踏み入れてはならない聖域であった。

 ノエルは震える手で、重い真鍮のドアノブに手をかける。

 幸いにも――そして不幸にも、鍵はかかっていなかった。ギデオンはこの屋敷に、自分の聖域を侵す者などいるはずがないと、信じきっていたのだろう。

 ぎい、と軋むような小さな音を立てて、扉が開く。

 そこはまるで別世界だった。積み上げられた書物の気配が、重石のように空気を押しつぶしている。中に満ちていたのは、古い革とインクの匂いが混じり合った、重厚で、そしてどこか息苦しい空気であった。


「……すごい」

 ピーターが、思わず感嘆の声を漏らした。

 壁一面を埋め尽くす、天井まで届くほどの巨大な書棚。その全てに、背表紙が革で装丁された、分厚い法律書や歴史書が、ぎっしりと並べられている。

「で、お宝はどこなんだ?」

 リチャードが、宝探しを楽しむかのように、目を輝かせた。

「こっちだ」

 ノエルは誇らしげに胸を張ると、一番奥のひときわ大きな書棚の前で足を止めた。そして以前、父がやっていたのをこっそりと盗み見た通りに、一冊の分厚い本の背表紙を、ぐっと奥へと押し込んだ。

 僅かに響く、低い、石が擦れるような音と共に、書棚の一部が、ゆっくりと横にスライドしていく。

 現れたのは、鉄製の重々しい扉。隠し金庫であった。

 ノエルはダイヤル錠を、これまた記憶していた通りの数字に合わせる。

 カチャリ、と、乾いた金属音がして、重い扉が開かれた。

 金庫の中に鎮座していたのは、一つの息をのむほどに美しい馬車の置物であった。

 精巧な銀線細工で形作られた、優雅な馬車。それを引く四頭の有翼の馬は、まるで今にも夜空へと駆け上らんとするかのような、躍動感に満ち溢れている。そして中央の籠の中には、夜空に輝く星のように、どこまでも透明な宝石が一つ、納められていた。


「うわあ……!」

「なんて綺麗なんだ……!」

 リチャードとピーターが、その幽玄な美しさに、ただただ言葉を失っている。

 ノエルは二人の反応に心底満足した。これこそが、ノエルが望んでいた光景だったのだから。

 だが、リチャードはそれだけでは満足しなかった。彼の瞳はより強い、そしてより危険な好奇心の色を宿していた。

「なあ、ノエル様。その中の宝石、取り出せるんじゃないか? 光にかざしたら、もっと綺麗に光るに違いないぜ!」

 その言葉は、ノエルの破壊衝動に火をつけた。

 ノエルは、美しいものをただ眺めているだけでは満足できなかった。それを自分の意のままにしたい。壊して、分解して、その秘密を暴きたい。そんな、子供特有の無邪気で残酷な欲求が、彼の頭をもたげた。

「……待ってろ」

 ノエルはそう言うと、父の巨大な執務机の上に置かれていた、一本のペーパーナイフを手に取った。象牙の柄がついた、鋭い銀の刃。

 彼は再び金庫の前へと戻ると、そのペーパーナイフの切っ先を、寸分の躊躇もなく、宝石を覆う繊細な銀線細工の隙間へと突き立てようとした。


 切っ先が触れる、その瞬間。部屋そのものが息を止めた。


 ――キィィィィィィィィィィッ!!


 まるで世界そのものが引き裂かれるかのような、耳をつんざく甲高い絶叫。

 それは置物から放たれた、断末魔の叫びであった。

 納められていた透明な宝石は、瞬時にして、禍々しいほどの、鮮血の色へと変貌する。

 そして。

 書斎の壁が。床が。天井が。まるで、ゼリーのように、ぐにゃり、と歪み始めた。

 少年たちの、無邪気で愚かな冒険は終わった。

 後に残されたのは、世界が崩壊していく音と、自分たちが犯した罪の重さに、ようやく気づいた者たちの、短い、短い、悲鳴だけであった。

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