第24話 見えざる脅威

 王城の詰所へと戻ったルーカスを待っていたのは、彼が出発する前とはまるで違う、張り詰めた空気。どこか鉄の匂いが漂う、血の気を帯びた緊張。

 怒声。足音。鎧が擦れ合う、硬い金属音。長椅子で休憩する者はおらず、誰もが落ち着きなく動き回り、険しい顔で武器の柄に手を添えていた。まるで、今すぐに出陣を命じられるのを待つ、戦場の前線基地。そんな異常なまでの緊張感が、狭い空間に満ち満ちていた。

 ルーカスは、何かとてつもなく重大な、そしておそらくは血生臭い事件が起こったのだと、肌で感じ取った。


「おい、ルーカス! 無事だったか!」

 振り向けば、ルーカスにお使いを命じたバルツが、鬼気迫る表情でこちらへ駆け寄ってきた。彼の顔からは、出発前までの二日酔いの気配などすっかり消え失せ、歴戦の兵士としての厳しい顔つきが浮かび上がっている。

「先輩……一体、何があったんですか?」

「何が、じゃねえ! お前、何も見なかったのか!? ついさっきだ! お前がお使いに出ていた、ちょうどその間に!」

 バルツの口から語られたのは、衝撃の事実であった。

「繁栄派の有力貴族が乗った馬車が、何者かに襲撃されたんだ! 場所は、貴族街と平民街を結ぶ、あの坂の下の大通りだ!」

 繁栄派の貴族――父ギデオンの息がかかった人物であるのは、まず間違いない。

「幸い、馬車の主も、護衛の負傷だけで済んだらしいがな……。だが、問題はそこじゃねえ。宰相閣下が、カンカンに怒り狂っているそうだ」

 ――繁栄派。馬車。襲撃。

 それは、先ほど自分が耳にした、あの騒ぎの正体そのものであった。

 彼の脳裏に、あのけたたましい破壊音と、馬の苦痛に満ちたいななきが、生々しく蘇る。


 血の気が、すうっと引いていくのを感じた。

 事件が起きたのは、自分が猫に足止めを食らっていたあの場所の、ほんの目と鼻の先だ。

 あの猫がいなければ。

 あとほんの数分、帰路につくのが早ければ。

 自分が、その事件の真っ只中に巻き込まれていた可能性があったのだ。


(……もし、あの猫がいなかったら)

 ルーカスの脳裏に、あまりにも鮮明で恐ろしい仮定が、次々と浮かんでは消えていく。

 良くて、現場に居合わせた者として、面倒な尋問を受けるはめになっただろう。最悪の場合、宰相の息子である自分の顔を知る犯人と鉢合わせになり、巻き添えに……。あるいは、犯人の仲間だと誤解され、その場で護衛に斬り捨てられていた可能性すら、あったのかもしれない。

 そして何より、もし自分が事件に関わってしまえば、その場所にいた理由である『木漏れ日亭』の存在にまで、余計な疑いの目が向けられていたかもしれないのだ。

 考えただけで、全身の血の気が引いていく。自分はほんの紙一重のところで、死と、仲間たちの平穏を失う事態を避けていたのかもしれない。


 バルツは、青ざめていく後輩の顔を見て、何かを感じ取ったようだった。彼はどこか同情するような目で、そっとルーカスの肩に、大きな手を置いた。

「いいか、ルーカス。ここだけの話だがな。宰相閣下は、カンカンにお怒りだ。『これは、先の広場での一件で敗北した、伝統派の残党による、卑劣な報復行為に違いない』と、そう息巻いておられるそうだ」

「閣下が……」

「ああ。そうなるとだ、お前も一応あの人の息子だからな。お前を人質に取ろうとしたり、腹いせに襲いかかってきたりするような道理の通じねえ伝統派の馬鹿が、いねえとも限らねえ」

 バルツは、そこで一度言葉を切った。

 そして、まるで年の離れた弟に言い聞かせるかのように、真剣な、そして心の底から心配するような声で、続けたのだ。


「しばらくは、あまり城の外をうろつくんじゃねえぞ。分かったな?」


 その、純粋な気遣いの言葉。

 それがルーカスの頭の中で、まるで雷に打たれたかのように、ある一つの言葉と鮮烈に結びついたのだ。


『身の安全のためだ。しばらくは、王城と屋敷の往復に留めておけ』


 ――父のせいで、自分が狙われる危険がある。

 ――だから、城と屋敷の外に出るな。


 兄、サイラスのあの凍てついた警告は。

 それは本当に、自分の身の安全を案じてのものだったというのか……?

 ルーカスの内面世界が、激しく揺さぶられた。

(いや……そんなはずはない。あの兄上が、この僕を? 出来損ないで、無価値な弟を心配するなんてこと、あるはずが……)

 ルーカスの脳裏を、これまでの兄の冷たい言葉と、侮蔑に満ちた眼差しが、走馬灯のように駆け巡る。

(そうだ、きっとこれも何か父上の差し金なんだ。僕を監視し、支配するための口実に違いない)

 だが。

(……だが、もし。万が一。あの言葉が、兄上自身の言葉だったとしたら? もし、本当に、僕を危険から遠ざけるために、あの人は……?)

 サイラスは、自分の自由を奪おうとする、冷酷な抑圧者ではなかったのか。

 それとも。

 あの氷の仮面の下には、不器用で、歪んでいて、そして誰にも理解されることのない、弟を思う心などというものが、本当に存在するというのか。


 分からない。

 兄の真意が、全く、分からない。

 ルーカスの心は、これまでにないほど深く、激しく揺れていた。

 ただ一つ確かなのは、これまでの「兄=敵」という、彼がこの歪んだ家で生きるために必要だった、あまりにも単純な方程式が、今、根底から覆されようとしているという、その事実だけであった。

(……兄上は、敵なのか)

 ルーカスは、心の内で、必死にその考えに抵抗しようとした。

 兄が味方かもしれない――そんな甘く、都合のいい幻想にすがってはならない。きっと、裏切られる。母の死後、父が自分を踏みにじったように。兄だって同じはずだ。

 そうに、違いないのだから。

 そう思わなければ、立っていられなかった。

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