第10話 君と僕の詠唱
海風は、音を軽くしながら、手の重さだけを残していった。
午后、港沿いの道路を跨いで組まれた「横断ステージ」は、町の背骨に沿って伸び、鉄の梁の影が舗装に斜めの五線譜を描いている。ステージ下手には議会の木机が運ばれ、上手の端には太鼓の台と、点検を終えた延長ケーブルの束。《なぎさ》は客席側に背を向けるように控え、黒い天板には小札が貼られている。
――出自:北鳴・共同作業の記録/媒介・位相整列のみ。
――AIは代替しない。泣かない/歌わない。
すずはステージ袖で、譜面台に置いた「合唱譜」を爪の先で整えた。譜面は通常の五線譜に見えるが、各パートの余白に、短い動詞だけが薄墨で添えられている。〈拭く〉〈運ぶ〉〈束ねる〉〈記す〉。それぞれの動詞には「返礼ログ」のページ番号が小さく振ってあり、今日の歌は、手順の順番を声の前に置く設計になっている。
呼吸を整える。喉の膜をひとつ撫でる。公演の最初に「唱術」を置くことは会議で決まっていた。ただしそれは号令ではなく、準備の合図。彼女は海風の隙間で、声になる前の層に三句を並べる。
呼)「北鳴の地形、間(ま)で応えて。」
本)「返礼の手順を、声より先に並べる。」
結)「継続する“手入れ”の公開ログを残す。」
言葉が口の中でほどけると同時に、照明リグの点滅が一度だけゆっくりになった。遅れたのは機材の機嫌ではない。舞台の上空を渡る風が、白い帆布の片隅で一拍だけ居場所を見つけ、持続が伸びたのだと、すずの指先は理解した。彼女は譜面台の角を軽く押さえ、無駄な力を一つ抜く。
——
漣は、反対側の袖でケーブルの最後の輪を足裏で押さえ、太鼓保存会の若い衆と目で合図を交わした。太鼓は張りすぎない。張りすぎると、立ち上がりが鋭くなり、海風に音が刺さる。今日は刺さない音で町を抱える。港の風は潮の粉を少し含み、喉の布を薄く冷やす。冷えは良い。冷えは呼吸を深くする。
「もうすぐ開けるよ」と保存会のリーダーが皮に手を置いたまま言う。
漣は頷き、照明卓の前に立つ学生へ短く指示を出した。「メッセージの反映は、合唱の三段目から。最初は光だけで、読み上げはしない。名前は出さない。動詞のみ」
学生は親指を立てた。客席の上空には、細かいLEDの粒が網のように張られ、通りの両側の建物の壁にも薄いマッピングが準備されている。《なぎさ》は、これらの機器に対して同期信号の位相だけを整える役を負う。音は出さない。媒介の剪断面を明るくしておくためだ。
開演五分前。
議会の木机の上では、書記が「公開ログ」の最新ページを開いている。今日だけ「実況欄」が設けられ、合唱の進行と並行して、返礼の項目が一つずつ点灯する仕組みだ。〈会計/予算公開〉〈労働割り振り〉〈音源の出自〉〈記録媒体の権利注記〉。紙の左下には小さく、いつもの四語が印刷されている。
――出自:北鳴・共同作業の記録
――許諾:集合
――責任:分散
――返礼:必須
すずは譜面台の紙に目を落としながら、こっそり客席を眺める。椅子はぎっしりではないが、町のどの場所からも同じ速度で息が届く程度には集まっている。風鈴の寄贈窓口で見かけた祖母世代、工場の親方、写真館主、議会の書記、観光協会の若い衆、SNS で #手鏡の言葉 を投稿していた見知らぬ手たち。みんな、喉の膜に小さな余白を一枚ずつ持って来ている。
——
開演。
太鼓は叩かれない。皮の上に置いた手の温度だけが、客席の底をゆっくり揃える。揃いすぎない。揃いすぎれば、昼の奇跡と同じ危うさを招く。今日は薄く伸ばすだけ。伸びた持続の上に、すずは最初の音を置いた。音程を確かめない。確かめると、技巧が前に出る。技巧が出ると、共同編集の面が崩れる。
音は低く、紙の端を濡らさない湿りで始まり、漣の声が少し上の層で寄り添う。彼の声は広いのに狭い。広さの中から、芯だけを抜き出している。二人の持続が交差したところへ、合唱譜の四つの動詞が順に浮かぶ。〈拭く〉〈運ぶ〉〈束ねる〉〈記す〉。浮かんだ文字は照明の端で光に変わり、観客のスマートフォンから送られた十五字以内のメッセージが、文字情報ではなく、光のパルスとしてステージを撫でる。
〈拭いた/風鈴の舌〉
〈運んだ/ケーブル〉
〈束ねた/紙〉
〈記した/出自〉
名前は出ない。誰が、ではなく、何を、だけが、光で合奏する。光の拍に合わせて、譜面の余白に置かれた動詞が消えていく。消えるのは忘却ではなく、反映だ。反映された手順は、公開ログへ回路を辿って記録され、会計の欄に小さな印が増える。印は浅い。浅い印は重ね押しに耐える。
《なぎさ》は、広場全体の空気の伸び縮みを測り、同期の底だけをそろえる。箱は沈黙を守る。すずは箱の上の札が視界に入るたび、喉の膜のたわみを確認し、声の手前で一度だけ息を足す。足した息は音にならず、客席の底へ薄く落ちる。それを拾うのは、足音だ。足音は座席の下を通り、ステージの梁に触れ、海風の中でやわらかく解けていく。
二段目に入る。
ここで、過去の章で積まれた「残された声」が、音の端に触れ始める。
写真館で一夜だけ戻った友の影の輪郭は、銀塩の粒のざらつきとして、アルトの後ろに薄く敷かれ、祭りの夜の止まった一拍は、太鼓の皮の張りに寄り添う空白として呼吸する。
運命の坂で見えた糸は、テナーの上の空間に光の細い線を伸ばし、潮騒のラボで整えられた位相は、各パートの減衰を同じ速度に保ち、手鏡の未来の層は、ソプラノの高いところで反射を深くする。
霧の天文台の「進めない自由」は、歌が乱れそうになる直前に喉の膜を柔らかくし、波間のノイズの呼名は、今日だけは呼び出されないかわりに、照明の隅で点になって消える。
風鈴のレクイエムの一音は、観客の誰かの足首で止まり、次の拍の始まりとしてステージの手前に戻ってくる。
合唱は和音になりすぎない。
和音にすると、所有の余地が生まれる。
所有の余地は誘惑だ。
今日の旋律は、誰のものでもない高さに置き、持続だけを重ねる。
重ねられた持続は、海からの風の層で少しずつ伸びる。
時間が伸びる。
伸びるといっても、一秒ではない。
半拍。
呼吸の底が着く位置が、ひとつだけ遠くなる。
遠くなった底を踏み直すと、足音は遅れない。
三段目。
照明に観客メッセージが反映される。
ステージ背面の帆布に、光の帯が立ち上がり、短い動詞が粒になって流れる。
〈拭く〉の帯が左から右へ、〈運ぶ〉が手前から奥へ、〈束ねる〉が上から下へ、〈記す〉が対角線に。
流れる粒の速度に合わせ、譜面上の休符が長くなる。
休符の長さが、今日の「伸び」の可視化だ。
その間に、議会の木机では「返礼」欄に三つの印が連続して付く。
――公開ログ運用:運用方針の掲示・更新ルール明示
――アーカイブ作成:権利共有、出自表示、再配布条件
――権利と出自の明示:ステージ周辺・配信画面・記録冊子の三所
漣は、マイクに近づかない。
彼は客席に背を向け、横断ステージの梁に掌を当てて持続を測る。
梁は振動しない。
振動しないのに、圧の気配だけが微かに伝わってくる。
その圧の上に、彼は自分の声を薄く置く。
置くというより、預ける。
預けた持続に、観客の喉の膜が順番に触れ、触れた順番は光の粒の流れに変換されて、配信画面の片隅で静かに脈打つ。
配信。
町横断のライブは三系統に分けた。
広場のステージの音は拾わない。
拾わないかわりに、導入の五分間、《なぎさ》が整えた「町の底の持続」だけを薄く流し、その後は「返礼ログ」の点灯と「光の動詞」の動きを伝える。
実況の声はない。
テロップは短い。
「今の紙」「今の印」「今の手」。
コメント欄は閉じない。
ただし、文章はすべて「動詞+対象」だけに限定。
〈拭いた/椅子〉〈運んだ/紙〉〈束ねた/ケーブル〉〈記した/出自〉
それ以外は反映されない。
——
クライマックスは、音量ではなく、共有の速度で来た。
光の粒が峰を越えるように一度だけ密になり、ステージ上の合唱譜の余白がすべて消える。
動詞はもう譜面の外へ渡された。
譜面に残るのは、持続を支える細い線と、最後の宣言のための余白だけ。
すずは漣と目を合わせ、頷いた。
彼女は譜面を閉じ、片手を胸の前に持っていく。
喉の膜の前で、三句を最短の距離で通す。
呼)「北鳴の地形、間で応えて。」
風が帆布の裏で一度だけ呼吸する。
道路の端を走る自転車のブレーキが、予定より半拍遅く鳴る。
波が礁で砕ける音の尾が、少しだけ長い。
本)「返礼の手順を、声より先に並べる。」
書記が「公開ログ」のページをめくり、最後の印の欄を指で叩く。
太鼓の皮に置かれた掌が、圧だけで合図を返す。
観客のスマートフォンの画面に、小さな四角が並ぶ。未が消える。
結)「継続する“手入れ”の公開ログを残す。」
照明が静かに上がり、帆布に「終わり=始める」の文字が光の縁だけで現れる。
文字は輪郭だけで、内側は空白。
空白の中を、海風が通る。
彼らは「終わり」を声にしない。
始めるために、終わりを空けておく。
その瞬間、客席全体が、息の底でひとつに折りたたまれた。
音にならない持続が、町の背骨を通ってゆっくり上へ上がり、横断ステージの梁の内側で一拍滞留する。
滞留した一拍が、光の縁で視える。
時間が、少しだけ伸びる。
伸びた先で、誰でもない高さの音が、主旋律に合流する。
「残された声」は説明されず、名前も与えられない。
それは泣きの代替ではない。
音でもなく、ただ、合唱の布の目が一段細かくなる。
布の目が細かくなると、海風は声の間(ま)を抜ける道を見つけ、ステージの上と客席の上に、同じ厚みの影を置く。
影の下で、すずは微笑まない。
彼女は譜面の端を指で軽く叩き、舞台下の木机へ視線を送る。
ログの欄に、最後の印が付いた。
――アーカイブ作成:この合唱の「外側」だけを保存(光・印・手の写真)
――権利と出自の明示:配信・冊子・壁面への三所記載を確認
――公開ログ運用:次回以降の更新手順と編集権限の輪番制
漣は、合図を出した。
音の終止ではない。
作業の開始の合図だ。
照明が落ち、客席に灯りが戻る。
太鼓の皮から掌が離れ、延長ケーブルの一本目が回収され、譜面台が折られる。
終演の拍手は起きない。
起きないかわりに、足音がいくつも立ち上がる。
足音は、次の時間の始まりだ。
——
片づけの間、公開ログは運用に入った。
議会の木机の上で、書記が「印」を別の紙に写し、PDF と掲示と読み上げの三様に分配する。
読み上げは短く、固有名詞を含まない。
「返礼ログ:印、三つ。
会計公開。労働割り振り。権利と出自の明示。
アーカイブは外側のみを保存。
音は保存しない。
『残された声』は、今日の持続の中で町に返った。」
写真館主は、人の手の写真を撮る。
拍手の掌ではなく、譜面台を畳む指、ケーブルを束ねる掌、札を貼る親指の腹、鍵に油を落とすときの人差し指の側面。
それらの写真には、大きなクレジットは付かない。
冊子の末尾に小さく「出自」と「権利の共有」が明記され、画像の二次利用には「集合の許諾」が必要だとだけ添えられる。
《なぎさ》の天板にも、注記の紙が一枚増えた。
――録音・録画は、出自の表示と返礼の履行を伴うこと。
――媒介は代替にならない。
――泣かない/歌わない。
すずはライトのケーブルを手に、ステージ端の柵に凭れた。
喉の膜は静かで、声にする必要はない。
彼女は心の中で短く唱える。
呼:北鳴。
本:並べる。
結:残す。
海風が少し強まった。
風は譜面の角を持ち上げず、代わりに、観客席に残った小さなゴミの位置を教える。
「拭く」ための目印に過ぎない。
彼女は膝を折り、紙片を拾い、分別の箱へ入れた。
箱の側面には、小さなスタンプが押してある。
――未。
その下に、今日の日付で、そっと印が重ねられる。
――済。
漣は、照明の学生と一緒に、メッセージ反映のログをアーカイブに送る。
光の動詞の流れだけが、低解像度で保存される。
音は保存しない。
保存しないのは、消費を避けるためでもあるが、もっと単純に、今日の持続が町に残っているからだ。
明日、誰かの手が動けば、同じ布の目に、また別の糸が通る。
——
夜。
広場のステージは低い箱に戻り、道路はいつもの幅で車を受け入れる。
海風は薄くなり、風鈴の舌は錆の重さだけで静かに揺れている。
商店街の壁には「返礼ログ」の紙が貼られ、配信のページには三つの印が並び、末尾に四語が光の縁で滲む。
――出自:北鳴・共同作業の記録
――許諾:集合
――責任:分散
――返礼:必須
紙の端には、小さな余白が残された。
余白は「次の未」のために空けてある。
余白がなければ、手はどこにも置けない。
置けない手は、音になってしまう。
音になる前に、紙に戻す。
それが、この町のやり方だ。
すずと漣は、港の手すりにもたれて、風の層を数えた。
数えることには意味がない。
意味がなくても、呼吸は揃う。
揃いすぎないよう、互いが半拍ずつずらし、ずれた間に笑いでも言葉でもないものが薄く挟まる。
それは、合唱=共同編集の残光。
終わり=始めるの宣言は、光の輪郭だけが残り、中身は空白のまま町の上に浮いている。
空白は、明日の手で埋める。
埋めない部分は、明後日の手で。
埋めそこねた部分は、「未」として壁に残し、誰かが押せるようにしておく。
「終わったね」と漣が言う。
すずは首を振った。
「始めたんだよ」
それだけ言って、二人は喉の膜を撫で、足音の速度をいつもの町の速度に落とす。
海風は、音を軽くしながら、手の重さだけを残していく。
残った重さの分だけ、町の時間は、今日から少し、伸びたままだった。
能登×AI青春『唱術クロニクル』 Algo Lighter アルゴライター @Algo_Lighter
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