第40話 新学期、新たな共犯者たち


 九月一日。二学期の始業式。学校の体育館に、高校三年生の全生徒が集められていた。体育館特有の、埃っぽく、湿気と熱気がこもった重苦しい空気の中、俺たちは、整然と並んだ生徒たちの波の中に、紛れ込んでいた。夏休みという、現実から隔絶されたモラトリアムの期間は終わり、俺たちは再び、公的な、狭い、そして他者の視線に満ちた日常という舞台の上へと引き戻されたのだ。その非日常的な夏休みが、俺たちの人生にもたらした変化の大きさを、俺は改めて、この体育館の冷たい床の上で、感じていた。


 校長の、単調な訓話が、スピーカーを通して体育館の隅々まで響き渡っている。誰もが皆、うんざりした顔で、その言葉を聞き流している。その中で、俺だけは、その単調な音の奥に、この空間の、そして俺たち自身の、張り詰めた緊張感を、痛いほど感じていた。俺たち三人の間に張り巡らされた秘密の鎖は、この公的な場でこそ、その存在感を増幅させるのだ。


 俺の右前方、クラスの列のさらに前列には、彰太が立っている。剣道部の主将として、彼は背筋を真っ直ぐに伸ばし、校長の話に真摯に耳を傾けている。その真面目な横顔、誠実な立ち姿は、彼がどれほど、この公的な世界において、一点の曇りもない「良心の模範」として存在しているかを物語っていた。俺たちの欺瞞が、この親友の無垢さを、どれほど深く踏みにじっているのか。その罪の重さが、俺の喉の奥に、鉄の塊のように引っかかっていた。彼の隣には、彼の恋人である文香がいる。彼女は、黒縁眼鏡をかけ、黒髪をきちんと結い上げ、優等生の仮面を完璧に纏っている。その表情には、夏休み中の激情の跡など、微塵も感じられない。彼女は、もう二度と、あの場所で愚かな優柔不断さを露呈することはないだろう。彼女の瞳の奥には、俺との関係を完全に支配し、菜月を出し抜いて、その座を奪い取るという、冷徹な決意が炎となって燃え上がっているのだ。


 そして、俺のすぐ左後方には、菜月がいる。彼女は、俺の背中に向かって、時折、いたずらっぽい視線を送っているのだろう。俺は、振り返ることをしない。しかし、彼女の存在が、この密室のような空間の中で、俺の心に、絶えず、熱い共犯者の鎖を巻き付けているのを感じていた。菜月の能動的な愛情と、俺の弱さをすべて受け入れたという揺るぎない自信が、彼女をこの歪んだ関係の「正妻」の地位に押し上げている。文香への嫉妬という火種は残しつつも、彼女は俺の心の安息所であり、唯一の理解者であることを、自覚している。


 三人の間には、誰にも理解し得ない、暗黙のルールと、秘密の絆が張り巡らされている。それは、この始業式という、最も公的な場所において、最も濃密な裏の繋がりを、形成していた。


 俺は、ふと、文香の方へと、視線を送った。彼女の瞳は、校長の方を向いてはいるが、その焦点は、遥か遠く、手の届かない場所を見つめているかのようだ。俺の視線を感じ取ったのだろう。文香は、ゆっくりと、そして、誰にも気づかれないほどの微かな動きで、俺の方へと視線を向けた。


 その瞬間、二人の視線が、体育館の薄暗い熱気の中で、硬く結ばれた。彼女の瞳には、一切の感情が読み取れない。ただ、冷たい水面のように静かで、深く、俺の覚悟を試すかのような、静かな威圧感が込められていた。彼女は、俺が菜月との絆を再確認したことを、既に理解している。そして、その絆さえもをも凌駕する、より強固な、肉体的・精神的な依存関係を築くための、次の一手を、静かに、そして緻密に練っているのだろう。その静かな視線が、俺の背筋を冷やした。


 俺は、その視線から逃れるように、今度は、背後へと意識を向けた。菜月の気配を感じる。


 菜月は、校長の話に退屈したように、わざと大きなため息をつくと、俺の背中に向かって、誰にも聞こえないほどの微かな声で、悪戯っぽく囁いた。


「ねえ、佑樹。……さっき、文香と、アイコンタクトしてたでしょ」


 その言葉は、俺の秘密の行為のすべてを、彼女が監視し、支配下に置いているという、明確な警告だった。彼女の瞳には、俺という男のすべてを知り尽くしているという、揺るぎない優越感と、俺への絶対的な信頼が宿っている。彼女にとって、文香の介入は、もはや脅威ではない。むしろ、俺の心を完全に手に入れた自分自身の地位を、確認するための、格好の材料に過ぎないのだ。


「……うるせえよ」


 俺は、声を出さずに、そう返すのが精一杯だった。その返答だけで、菜月は満足したように、小さく笑った。


 この瞬間、俺という存在は、二人の幼馴染の間に引き裂かれ、そして、その両方から、極めて排他的な愛情と、支配欲を注ぎ込まれている。そして、その関係のすべてを知らない彰太は、俺たちのすぐ前で、ただ、剣道部主将として、理想の模範を演じ続けている。彼の無垢な友情こそが、俺たち三人の罪を、さらに深く、暗いものにしているのだ。俺は、彼との友情を、この欺瞞の上に、どれだけ長く維持できるのだろうか。その答えを出すことは、今の俺には許されない、最も重い宿題だった。


 新学期が、始まった。


 俺たちの歪んだ日常は、夏休みの密室から、学校という公的な舞台へと、その場所を変えた。それは、共犯者としての連帯感を深めると同時に、秘密の崩壊という、常に背中合わせの恐怖を抱える日々でもあった。俺は、この歪んだ三角関係の責任を、正面から背負っていく覚悟を決めた。この愛は、激情だけでは維持できない。それは、継続と、そして、罪を共有する覚悟という名の、重い責任を伴うのだ。この二学期が、俺たちにとって、どのような「選択の代償」を突きつけることになるのか。俺は、その冷徹な運命の号砲を、静かに、しかし、強く、心で受け止めていた。俺たちの物語は、ここからが、本当の始まりだった。


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