第39話 罪悪感と日常の境界
九月一日の未明。夜明け前の光が、カーテンの隙間から細く、青白い刃のように部屋の中に差し込んでいた。俺は、ベッドの横で規則正しい寝息を立てる菜月と、背中合わせで深く眠る文香から、そっと身体を離した。肌に張り付くシーツを静かに剥がし、裸の身体にTシャツだけを引っ掛ける。その動作一つ一つが、この濃密な密室の空気を乱さぬようにと、神経を張り詰めた。
床に散らばった衣類や、俺たちの行為の生々しい痕跡が、この部屋がもはや、ただの受験生の勉強部屋ではないことを、雄弁に物語っている。罪の匂いは、換気された空気の中にも、なお粘着質にこびりついていた。俺の肉体は、昨夜の激情の余韻で、まだ微かに熱を持っている。しかし、その熱とは裏腹に、俺の心には、冷たい責任感だけが、鉛のように沈んでいた。俺は、流されるだけの男では、もういられない。この二人の女たちの欲望と、この関係から生じるであろうすべての責任を、真正面から引き受ける覚悟が必要だった。
リビングへと続く廊下に出た瞬間、部屋の熱気から解き放たれた冷涼な空気が、俺の肌を撫でた。窓の外は、まだ暗く、長かった夏の終わりを告げる湿った土の匂いが、微かに漂っている。俺は、壁に背中を預け、スマートフォンを取り出した。画面をタップし、連絡先から「彰太」の名を呼び出す。
プルルル、プルルル。
数回のコール音の後、親友の、少し眠たげだが、どこか真面目な声が、鼓膜に響いた。
「もしもし、佑樹か。どうした、こんな時間に」
「ああ、悪い。起こしたか。いや、ちょっと、目が冴えちまってな。明日から二学期だろ。ちょっと、お前と話しておきたくて」
俺の声は、努めていつも通り、ぶっきらぼうで、気安い調子を装った。しかし、その一言一言を発するたびに、俺の胸の中に、冷たい罪悪感が、じわりと広がっていくのを感じた。俺が今、この廊下で話しているこの男は、俺が最も裏切り、最も傷つけ、そして、最も心から信頼している、俺の親友なのだ。その優しさ、その無垢な信頼が、俺の罪の重さを、際限なく増幅させていく。
「なんだ、お前が緊張するなんて珍しいな。まあ、明日から進路指導も本格化するし、お前も地元国立大に絞ったんだろ? お互い、頑張らないとな」
彰太は、電話の向こうで、俺たちの将来について、清々しいほどの希望に満ちた声で語った。東京の難関大学を目指す彼の言葉には、文香と歩む、輝かしい未来の確信が滲んでいる。俺は、その言葉を、ただ「ああ」という短い相槌で、受け流すしかなかった。この瞬間、俺の目の前には、現実の彰太と、俺たちが彼から奪ったもの、そして、これから奪うであろうものが、鮮明な対比となって浮かび上がっていた。
「……文香は、どうした? 一緒じゃないのか?」
「ああ。あいつは、もう寝てるよ。昨日、祭りに行って、人混みに疲れたって。俺たち、夏休みの課題、まだ終わってないからって、無理やり勉強させてたんだ。あいつも、疲れたんだろ」
俺は、あまりにも流暢に、嘘をついた。文香が疲れていたのは、祭りや課題のせいではない。俺と菜月との、激情に満ちた情事のせいだ。そして、俺は今、その行為に加担した菜月と文香の、二人の温もりのすぐ傍で、その恋人である彰太と、何食わぬ顔で会話している。この欺瞞に満ちた状況が、俺の良心の呵責を、強烈な吐き気となって、喉元までせり上がらせた。
「そうか。文香、無理しすぎるところがあるから、お前も見てやってくれよ。お前が一緒にいると、安心するんだ」
彰太の言葉は、まるで俺が、文香の「性的救済者」であることを、知らないまま承認しているかのようだった。その言葉の刃が、俺の胸を、深く、深く、突き刺す。俺は、その瞬間、彰太に対する、申し訳なさだけではない、ある種の、優越感にも似た、倒錯した感情が湧き上がってくるのを感じた。友情を踏みにじったことへの罪悪感と、親友の恋人の心を完全に支配しているという全能感。その二つの感情が、俺の心の中で、歪な共存を果たしていた。
「分かってる。……お前こそ、無理するなよ。剣道の練習もあるんだろ。体、壊すなよ」
「ああ、ありがとう。お前もな。じゃあ、また明日、学校で」
「……ああ、また明日」
電話が切れた。俺は、静寂を取り戻した廊下に、しばらくの間、立ち尽くしていた。掌に残る、スマートフォンの冷たい感触だけが、現実の感触を伝えてくる。
俺は、今、俺が最も恐れていた「友情の崩壊」という現実から、かろうじて逃れることに成功した。しかし、それは、「欺瞞」と「共犯」という、さらに業の深い鎖に、自分自身を繋ぎ止めるという代償を伴うものだった。俺の心の中の境界線は、もはや、善悪の区別を失い、歪んだ快感と罪悪感が混じり合う、曖昧な泥沼と化していた。
俺は、菜月と文香が眠る部屋のドアを、ゆっくりと、そして静かに開けた。部屋の中は、相変わらず、二人の温もりと、甘い匂いに満ちている。俺は、その光景を、一瞬見つめた後、ため息を一つ吐いた。
文香の重すぎる愛も、菜月の能動的な独占欲も、そして彰太への欺瞞も、すべてが、俺の新しい日常を構成する、かけがえのないピースとなってしまったのだ。俺は、この歪んだ三角関係を、正面から、そして全力で背負っていく覚悟を決めた。この逃げられない現実こそが、俺という流され者の人生に、初めて与えられた「責任」なのだから。
俺は、窓を閉め、再び、二人の温もりの間に、その身を滑り込ませた。文香の甘い香りと、菜月の爽やかな香りが、俺の左右から、鼻腔をくすぐる。俺は、その二つの香りを、深く、深く、吸い込んだ。それが、俺がこれから背負っていく、罪の重さなのだと、自分に言い聞かせるように。
俺たちは、この夏の終わりに、静かに、そして確かに、一つの世界の終わりを、受け入れた。そして、明日から始まる、新しい世界の入り口で、ただ、互いの体温だけを頼りに、寄り添い合っていた。この歪んだ連帯感こそが、俺たちにとっての、新たな安息であり、そして、愛の継続と責任を、強制的に求める、冷徹な現実だったのだ。
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