第41話 文芸部という名の巣窟


 九月上旬の放課後、学校全体が部活動の喧騒に包まれる中、俺たち三人は、その喧騒を背に、校舎の最も古く、人目に付きにくい北棟へと足を運んでいた。三年生となり、受験という現実が近づいているにもかかわらず、俺たちの間には、夏休みの間に結ばれた罪と欲望の鎖が、より一層強く巻き付いている。廊下には、古びたワックスと、壁の奥から染み出す微かなカビの匂いが漂い、この場所の時間の流れが、他の場所よりずっと緩やかであることを物語っていた。


 文芸部室。それが、文香の提案により決定された、俺たち三人の秘密のアジトだった。廃部寸前のこの部室は、鍵こそかかっているものの、実質的な活動はほとんどなく、その静寂と隔離された環境こそが、俺たちの歪んだ共犯関係を継続させるための、完璧な巣窟となり得たのだ。


 ドアの前で、文香が立ち止まった。彼女は、制服のスカートの襞を、指先で静かに撫でている。いつもの黒縁眼鏡をかけ、黒髪をきちんと結い上げたその姿は、一見、真面目な優等生そのものだ。しかし、俺の視線には、その穏やかな仮面の下に、この場所を確保した冷徹な戦略家としての光が見て取れた。彼女にとって、この部室は、彰太という良心の監視から逃れ、俺の肉体的な救済を得るための、唯一にして絶対的な聖域なのだ。


「誰も、来てないわね」


 文香は、声を潜め、廊下の端から端までを、静かに見渡した。その警戒心は、自宅でのアポなし訪問という強引な手段で、俺たちの秘密を掌握したあの日の計算高さを物語っている。


 その隣で、菜月は、苛立たしげに地団駄を踏んだ。


「だから、誰も来やしないって。いちいち慎重すぎるんだよ、文香は」


 菜月の言葉は、スリルへの期待と、この秘密の行為を文香にリードされていることへのライバル心が混じり合っている。彼女のショートパンツ姿は、この場所の静寂の中で、能動的で、そして挑発的なエネルギーを放っていた。


 文香は、菜月の軽口を無視し、その小さな鍵を、静かに鍵穴に差し込んだ。カチャリ、と、金属的な音が響く。その音は、俺たちを、日常の境界線の内側から、倒錯した日常という名の、新しい世界へと迎え入れる、静かで、しかし、決定的な合図だった。


 ドアが開くと、部室の中は、廊下の光景とは一変していた。そこは、古紙とインク、そして、長期間換気されていないことによる、重く、澱んだ空気に満たされている。窓から差し込む西日も、その埃を透過して、くすんだ薄緑色の光となり、部屋全体を照らし出していた。それは、淫靡な熱を帯びる前の、清廉な静寂だ。この静寂こそが、やがてここで交わされるであろう、俺たちの背徳的な喘ぎ声を、完全に吸い込み、隠蔽してくれるだろう。


「うわ、くさっ。古紙とカビの匂いがするよ、ここ」


 菜月が、鼻をつまんで言った。


「我慢して。ここが一番安全で、誰にも邪魔されない場所なのよ。私たちは、ここで、秘密の共同謀議を続けるの」


 文香は、そう言いながら、部屋の中央にある、長机へと向かった。机の上には、埃を被ったままの、古びたタイプライターと、装丁の破れた詩集が置かれている。文香が、それを優しく撫でる。彼女にとって、ここは文学という名の理想と、肉欲という名の現実を、統合させるための、内面的な聖域でもあるのだろう。


 俺は、彼女たちの後に続き、部室の中へと入った。この空間の閉鎖性が、俺の心に、強い安堵感をもたらした。俺の自宅のように、親の視線を気にする必要はない。そして、彰太という、良心の模範から、完全に隔離された、俺たちだけの王国。その中心にいる俺は、この歪んだ状況の支配者として、その全能感を、改めて噛みしめていた。流されるだけの男ではいられないという、あの夏に固めた覚悟を、この新しい巣窟の確保によって、確固たるものへと変えていく。


「まず、掃除しなきゃね。こんな汚いところで、私たちが、勉強なんて、できるわけない」


 菜月が、そう言って、部室の隅に立てかけられた、箒を手に取った。その言葉の裏には、「こんな汚いところで、エッチなんて、できないでしょう」という、能動的な欲望が隠されている。彼女は、この部室を、一刻も早く「俺たちだけの密室」へと変えたいのだ。彼女のその快活な行動力こそが、俺たちをこの罪の沼から引き離さない、強固な鎖なのだ。


 文香も、黙って雑巾を手に取り、机の上の埃を拭き始めた。彼女の動きは、几帳面で、そして、どこか悲しいほどに、真剣だった。彼女が拭き取っているのは、単なる埃ではない。それは、彰太への罪悪感という名の、彼女の心に積もった、過去の汚泥なのだろう。


 俺は、彼女たちの間に、奇妙な連帯感が生まれているのを、感じ取っていた。それは、嫉妬や競争心を超えた、罪の共有者としての、歪な信頼関係だ。二人は、互いの存在を否定することなく、俺という「共通の目的」のために、協力し始めている。


 俺が窓を開け、新しい空気を入れようとした、その時だった。遠くのグラウンドから響く、彰太の、剣道部の、気合の入った、甲高い声が、この密室の中にも、容赦なく、そして、清廉に響き渡った。


「面! 胴!」


 その声は、俺たちの欺瞞と罪を、その潔癖な精神で、遠くから断罪しているかのようだ。俺たちの良心そのものの声が、この秘密のアジトにまで侵入してきたことに、俺の心臓は、強く脈打った。


 窓辺で掃除をする文香の視線が、一瞬、俺と、そして声の聞こえるグラウンドの方へと向けられた。文香の瞳に、再び、冷たい恐怖の色が宿る。しかし、彼女はすぐに、その恐怖を押し殺し、冷徹な決意の光を灯した。彼女は、この部室が、彰太の監視から逃れ、俺の肉体的な救済を得るための、唯一の場所であることを、改めて、確信したのだ。


 「佑樹君、お願い。鍵、閉めて。それから、窓も閉めて。ここが、私たちの、誰にも邪魔されない、巣窟よ」


 文香の声は、震えていなかった。それは、この歪んだ日常の始まりを告げる、静かな女王の命令だった。俺は、その命令に抗うことなく、静かにドアを閉め、鍵をかけた。そして、窓を閉める。外の世界と、この密室の間に、物理的な境界線が引かれた瞬間だ。


 文芸部室は、古紙と埃の匂いに満たされながら、やがて、俺たちの情事の熱と、罪の香りによって、満たされていくことになるだろう。それは、俺たちの第二幕という、選択の代償を支払うための、静かな、そして、背徳的な、巣窟の誕生の瞬間だった。

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