第38話 夏の終わりの匂い
九月一日の未明。夜明け前の光が、カーテンの隙間から細く、青白い刃のように部屋の中に差し込んでいた。それは、昼間の太陽が持つ暴力的な熱さとは全く異なる、静かで、冷たさすら感じる光だった。長く続いた熱帯夜の記憶を、すべて拭い去ろうとするかのような、清冽な空気。その静寂の中で、俺の身体の左右では、二人の幼馴染が、まだ夢の中にいた。
俺の左腕には、猫のように丸くなって眠る菜月の、引き締まったしなやかな身体の熱。彼女の寝息は規則正しく、その唇は微かに開き、満足げな休息を物語っている。昨夜、俺の支配を受け入れた女王の、無防備な姿だ。彼女は、この歪んだ関係を、自らの独占欲とスリルを満たすための、新しい遊び場として捉えているのかもしれない。俺の腕の中で眠る彼女の重みが、この関係における彼女の揺るぎない自信を象徴しているかのようだった。その細い身体が、敏感でどれほど素晴らしいものかを知っているのは、今や俺だけだという事実が、俺の罪悪感を麻痺させる。
対して、俺の右胸にその豊満な身体を預ける文香は、どこか苦しげに眉を寄せている。たとえ眠りの中にいても、彼女の魂は、彰太への欺瞞という重い罪と、俺への肉体的な渇望との間で、激しく揺さぶられ続けているのだろう。その二つの、あまりにも異なる性質を持つ愛情の中心に、俺はいる。その事実は、俺に、神にも似た倒錯的な全能感と、この二人の女性の運命を背負わされてしまったかのような、底知れない重い責任感を、同時に与えていた。文香の告白と、俺の「全てが俺のものだ」という応答は、彼女の心の安寧と、俺の新たな使命とを、不可逆的に結びつけてしまったのだ。
俺は、二人を起こさないように、最新の注意を払いながら、そっと身体を起こした。シーツが擦れる微かな音が、この部屋の完全な静寂を、不気味なほどに際立たせる。床に散らばった衣類や、俺たちの行為の生々しい痕跡は、もはや日常の一部と化していた。罪悪感は、度重なる快感によって、遠い場所へと押しやられ、代わりに、この歪な関係を維持していくことへの、冷徹な覚悟だけが、俺の心に残っていた。俺は、流されるだけの男では、もういられない。この二人の女たちの欲望と、この関係から生じるであろうすべての責任を、真正面から引き受ける覚悟が必要だった。
窓を開けると、湿り気を帯びた、冷涼な風が、一気に部屋の中へと流れ込んできた。それは、アスファルトと土の匂い、そして、遠くでかすかに燃える何かの煙の匂いが混じり合った、夏の終わりの、独特の匂いだった。夜風が肌を撫でる感触は、長く続いた熱い日々の終わりを、五感を通して訴えかけてくる。
じじ……じ、じ……。
どこか遠くの木陰で、蝉が、まるで最後の力を振り絞るかのように、弱々しく鳴いていた。真夏の間、あれほど耳障りなほどに鳴り響いていたその声も、今や、か細く、そして途切れ途切れだ。まるで、一つの季節の、そして、俺たちの無垢だった青春の、終わりを告げる、弔いの歌のように聞こえた。その微かな音が、俺の心に、この夏に起きた出来事のすべてを、改めて、深く刻み込んでいく。
長かったようで、あまりにも短かった、夏休みという名のモラトリアムの期間。この夏、俺たちは、すべてを失った。幼馴染としての、清廉で曖昧な友情という名の安寧。そして、俺は、すべてを手に入れた。二人の女性からの、排他的で、そして倒錯的な独占的な愛情。その愛は、俺という存在の価値を、かつての夢を失った屈辱から、完全に解放してくれた。
俺は、この静寂の中で、静かに、そして確信を持って、一つの事実を受け入れていた。
もう、戻れない。
あの、何も知らず、ただ笑い合っていられた、安寧な日々には。
俺たちの間には、もはや、友情という名の、曖昧で、しかし、心地よい境界線は存在しない。あるのは、性欲と、独占欲と、そして、罪悪感で塗り固められた、共犯者という名の、冷たく、そして強固な鎖だけだ。この鎖は、俺たち三人を、世界のどこまでも、引きずり回していくのだろう。俺自身、文香からも、菜月からも、もう逃げられない。それは、俺が望んだことなのだから。俺には、この二人の女たち、そしてこれから始まる新しい関係に、正面から全力で向き合い、ともに歩み続けるための覚悟と、絶え間ない努力が必要だ。
俺は、改めて、ベッドの上で眠る二人の寝顔を見つめた。文香の重すぎる愛情。菜月の能動的な共犯者としての決意。どちらも、俺にとって、同じくらいに重く、そして欠かすことのできないものになっていた。この二人を同時に手に入れ、この歪んだ関係の責任を、正面から引き受けていく。それが、俺にできる、唯一の償いであり、そして、俺が選んだ、新しい生き方なのだ。この道が、いかに茨であろうとも。
東の空が、さらに白み始めた。新しい一日が、そして、高校三年生の二学期という、俺たちにとっての最後の公的な舞台が、始まろうとしている。それは、俺たち三人にとって、秘密を抱えたまま、その他大勢の日常の中に紛れ込み、共犯者として生きていく、新しい日々の始まりを意味していた。
俺は、窓を閉め、再び、二人の温もりの間に、その身を滑り込ませた。文香の甘い香りと、菜月の爽やかな香りが、俺の左右から、鼻腔をくすぐる。俺は、その二つの香りを、深く、深く、吸い込んだ。それが、俺がこれから背負っていく、罪の重さなのだと、自分に言い聞かせるように。
俺たちは、この夏の終わりに、静かに、そして確かに、一つの世界の終わりを、受け入れた。そして、明日から始まる、新しい世界の入り口で、ただ、互いの体温だけを頼りに、寄り添い合っていた。この歪んだ連帯感こそが、俺たちにとっての、新たな安息であり、そして、愛の継続と責任を、強制的に求める、冷徹な現実だったのだ。
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