第35話 三人の秘密のルール
夏休み最後の一日が終わり、俺の部屋には、昨夜の狂乱の残り香が、まだ粘着質に漂っていた。朝日がカーテンの隙間から差し込み、ベッドの上で眠る二人の幼馴染の、対照的な寝顔を照らし出す。俺の左腕を枕に、子供のように無防備な顔で眠る菜月。その表情は、昨夜、俺の支配を受け入れ、自らの独占欲を満たした女王の、満足げな休息のようだった。対して、俺の右胸にその豊満な身体を預ける文香は、どこか苦しげに眉を寄せている。たとえ眠りの中にいても、彼女の魂は、彰太への罪悪感と、俺への肉体的な渇望との間で、引き裂かれ続けているのだろう。この二つの、あまりにも異なる性質を持つ愛情の中心に、俺はいる。その事実は、俺に、神にも似た全能感と、底なし沼に足を踏み入れたかのような、先の見えない恐怖を、同時に与えていた。
俺は、二人を起こさないように、そっと身体を起こした。床に散らばった、彼女たちの、そして俺の下着。空になったティッシュの箱。昨夜の行為の生々しい痕跡が、この部屋がもはや、ただの受験生の勉強部屋ではないことを、雄弁に物語っている。罪悪感は、度重なる快感によって、完全に麻痺してしまっていた。友情は死んだ。そして、その死体の上で、俺たちは、歪で、しかし、抗いがたいほどに強固な、新しい関係を築き始めていた。
最初に目を覚ましたのは、菜月だった。彼女は、寝ぼけ眼をこすりながら、俺の顔を見ると、悪戯っぽく笑った。
「おはよ、佑樹。……なんか、すごいことになっちゃったね、私たち」
その声には、悲壮感も、罪悪感も、微塵も感じられなかった。むしろ、この非日常的な状況を、心から楽しんでいるかのような、スリルに満ちた響きがあった。
「……ああ」
「で? どうすんの、これから。明日から、学校、始まるんだけど」
菜月は、単刀直入に、核心を突いてきた。そうだ。夏休みという、現実から隔離されたモラトリアムの期間は、もう終わる。明日からは、学校という、狭く、そして他者の視線に満ちた閉鎖空間で、俺たちは、この歪んだ関係を続けていかなければならないのだ。
その時、文香が、ゆっくりと身を起こした。彼女は、乱れた髪を手で梳かしながら、黙って俺と菜月の顔を見つめている。その瞳は、昨夜の激情が嘘のように、静かで、そして冷徹な光を宿していた。
「……決めないと、いけないわね。これからの、私たちのための、ルールを」
文香のその一言で、部屋の空気が、一気に張り詰めた。それは、もはや痴態を演じた後の、気怠い朝の会話ではなかった。共犯者たちが、自らの罪を隠蔽し、そして、その関係を継続させていくための、冷徹な共同謀議の始まりだった。
俺たちは、ベッドの上で、奇妙な三角形を描くように、向かい合って座った。
「まず、彰太とのこと」
最初に口火を切ったのは、菜月だった。その視線は、真っ直ぐに、文香を射抜いている。
「あんた、本当に、あいつと別れる気、あんの?」
「……ええ。そのつもりよ」
文香は、淀みなく答えた。しかし、その声には、微かな、しかし、確かな躊躇の色が滲んでいる。彰太という「理想」を手放すことへの、恐怖。
「でも、すぐには無理。……あまりにも、急すぎるから。彼を傷つけずに、自然な形で、距離を置いていきたいの。だから、それまでは……」
「それまでは、今まで通り、あいつの前では、完璧な恋人を演じ続けるってわけね。……ふーん、都合のいい話じゃん」
菜月の言葉には、剥き出しの皮肉が込められていた。
「仕方ないでしょう!」
文香が、珍しく、声を荒らげた。
「私だって、苦しいのよ! 好きでもない男に、毎日、愛想笑いを浮かべて……。でも、そうでもしないと、私たちの関係が、彰太君にバレてしまう。……それでも、いいの?」
その言葉は、脅しだった。俺たちの関係の生殺与奪の権は、自分が握っているのだと、彼女は、暗に示している。菜月は、一瞬、悔しそうに唇を噛んだが、すぐに、諦めたように息を吐いた。
「……分かったよ。じゃあ、彰太の前では、今まで通り、ただの幼馴染。三人でいる時も、絶対に、馴れ馴れしくしないこと。アイコンタクトも、禁止。いいわね?」
「ええ」
一つ目のルールが、決まった。それは、俺たちの友情を、欺瞞という名の仮面で覆い隠すための、冷たい契約だった。
「次に、会う場所」
今度は、文香が、静かに口を開いた。
「佑樹君の部屋は、危険すぎるわ。いつ、ご両親が帰ってくるか分からない。……学校の、あの場所を使いましょう」
彼女が言っているのは、文芸部室のことだった。廃部寸前で、放課後は、ほとんど誰も寄り付かない、俺たちだけの、秘密の巣窟。
「部室、ね。……まあ、あそこなら、安全か」
菜月も、その提案には、異論はないようだった。
「放課後、私が鍵を開けておくわ。でも、三人で一緒に入るのは、ダメ。時間をずらして、一人ずつ、入ること。誰かに見られたら、終わりだから」
文香は、淡々と、しかし、緻密に、その計画を語っていく。その姿は、もはや内気な文学少女ではない。自らの欲望を満たすためなら、どんなリスクも計算し尽くす、したたかな戦略家だった。
「最後に、連絡方法」
俺は、黙って、彼女たちの会話を聞いていた。この歪んだ関係の中心にいながら、俺には、何の主導権もない。ただ、彼女たちが決めたルールに、従うだけだ。その事実に、俺は、屈辱と、そして、責任から解放されたかのような、奇妙な安堵を覚えていた。
「普通のメッセージアプリは、使わない方がいいわ。何か、別の、二人だけにしか分からないような、合図を決めましょう」
「合図?」
「ええ。例えば……私が、特定の作家の、特定の詩の一節を、佑樹君に送る。それが、今夜、会いたいっていう、合図。……どうかしら」
文香の提案は、あまりにも彼女らしかった。詩の一節に、官能的な欲望を忍ばせる。その文学的な背徳性に、俺は、思わず、喉を鳴らした。
「……なにそれ、めんどくさ。じゃあ、私は、天気予報のスクショ送るわ。『明日は晴れ』ってやつ。それが、あんたをめちゃくちゃにしてやるっていう、合図だから」
菜月が、わざとらしく、挑発的な笑みを浮かべて言った。
こうして、俺たちの、秘密の共有ルールは、次々と決められていった。彰太への対応、部室の使用、そして、秘密の連絡方法。それは、まるで戦争を遂行するための、緻密な作戦会議のようだった。俺たちは、友情という名の国を捨て、三人だけの、倒錯した王国を築こうとしている。
この共同謀議は、俺たち三人の間に、共犯者としての、より強固な連帯感を生み出していた。俺は、この歪んだ関係の責任を、二人と分かち合うことで、その重さから、目を逸らそうとしていたのかもしれない。明日から始まる新学期が、どのような地獄の舞台となるのかも知らずに。
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