第34話 菜月の優越感と文香のしたたかさ
夏の終わりの朝日は、カーテンの隙間から差し込み、部屋の埃を金色に照らし出していた。空気は、三人分の汗と体液が混じり合った、甘く濃密な匂いで満ちている。俺は、自分の身体の左右で規則正しい寝息を立てる、二人の幼馴染の温もりを感じながら、ぼんやりと天井を見つめていた。右腕には、俺の胸にその豊満な身体を預ける文香の、しっとりとした肌の感触。左腕には、猫のように丸くなって眠る菜月の、引き締まった身体の熱。昨夜、俺はこの二人を同時に抱き、そして、この歪んだ関係を正面から受け入れる覚悟を決めたはずだった。
「文香は、俺のものだ」
「俺と文香と菜月、どんな形でともに歩んでいけるか、一緒に考えよう」
確かに、俺はそう言った。それは、流され続けてきた俺の人生における、初めての、主体的な宣言だったのかもしれない。しかし、その言葉がもたらしたものは、安寧ではなかった。それは、新たな、そしてより複雑な戦いの始まりを告げるゴングに過ぎなかったのだ。
最初に身じろぎしたのは、菜月だった。彼女は、ゆっくりと目を開けると、俺の顔をじっと見つめ、それから、俺の腕の中で安らかに眠る文香の寝顔を一瞥した。その瞬間、彼女の大きな丸い瞳に、一瞬だけ、鋭い光が宿ったのを、俺は見逃さなかった。それは、自分の縄張りに侵入してきたライバルに対する、剥き出しの警戒心と、静かな闘争心の色だった。
菜月は、音を立てないように、そっと俺の身体から離れると、俺の耳元に、その唇を寄せてきた。
「……佑樹」
その囁きは、吐息のように甘く、そして、文香には聞こえないように計算された、共犯者だけの秘密の合図だった。
「ん……?」
「昨日のあんた、すごかったね。……でも、まだ、少しだけ、不安なんでしょ?」
その言葉は、俺の心の最も深い場所に、鋭く突き刺さった。そうだ。俺は、まだ、完全に解放されたわけではない。元カノに植え付けられた、あの屈辱的な性的コンプレックスの呪いは、たとえ二人に受け入れられたとしても、まだ、俺の魂の奥底に、黒い澱のようにこびりついている。菜月は、それを、完璧に見抜いていた。
彼女は、俺の返事を待たずに、布団の中に、その手を滑り込ませてきた。そして、その指先は、まだ昨夜の熱の余韻を残す俺の肉塊を、優しく、そして確かめるように、そっと包み込んだ。
「……こいつが、ダメなわけないじゃん。……私が、一番、分かってる。こいつが、どれだけ凄いのか。……こいつが、私をどれだけ、気持ちよくさせてくれるのか」
菜月は、そう囁きながら、俺の耳たぶを、甘噛みするように、軽く食んだ。その言葉と、下半身を支配する柔らかな愛撫は、俺の不安を、内側からゆっくりと溶かしていく。そうだ。一番最初に、この身体を肯定してくれたのは、菜月だった。ラブホテルのあの夜、俺の屈辱を、爆笑と共に吹き飛ばし、そして、誰よりも深く、俺を受け入れてくれたのは、紛れもなく、この女なのだ。
「あんたは、そのままでいいの。……いや、そのままがいいの。……私だけの、特別な佑樹で、いてくれれば」
その言葉は、文香に向けられた、明確な勝利宣言だった。「佑樹の心の一番深い場所を理解し、その弱さごと受け入れているのは、この私なのだ」と。彼女は、単なる肉体的な快楽ではなく、俺の精神的な弱さを支配することで、自らが「正妻」であることの優位性を、静かに、しかし、雄弁に示していたのだ。
俺は、彼女のその独占欲に応えるように、彼女の身体を引き寄せ、その唇に、深く、キスを返した。そして、彼女の瞳をまっすぐに見つめ、俺の心のすべてを、言葉にして伝えた。
「文香が俺の傍で自分らしくいられるように、俺は菜月の傍で自分らしくいられる。菜月は確かに口は悪いが、俺にとっていつも必要なことを言ってくれるんだ」
「……何よ、今さら。当たり前でしょ」
菜月は、照れたように顔を背けるが、その耳は赤く染まっている。俺は、そんな彼女の反応が愛おしくて、言葉を続けた。
「菜月だけを選べていたら、もっと早くから……って、そう思うと悔しいよ。でも、どっちも選べずに、ただ見てるだけだったのも俺だ。そんな俺の背中を、最後に押してくれたのは、菜月なんだ」
「……ばか」
菜月は、俺の胸に顔をうずめ、ぽつりと呟いた。その声は、微かに震えていた。
「だから、もう逃げない。歩み始めたからには、悔いを残さないように全力で向き合いたい。菜月のことも、ありのままの全部を、受け入れたいんだ」
「……何、プロポーズのつもり?」
冗談めかして言う彼女の瞳は、しかし、熱い涙で潤んでいた。俺は、彼女のその涙を、指先で優しく拭うと、最も伝えたかった言葉を、口にした。
「……菜月のその細い身体も、俺は好きだ。すごく敏感で、綺麗で……。他の誰かが何て言おうと、俺にとっては、かけがえのないものなんだ。だから、もっと自信持てよ」
その言葉は、彼女の心の最後の砦を、完全に打ち砕いた。彼女の瞳から、堪えきれない涙が、次々と溢れ出す。
「……ずるいよ、あんた……」
菜月は、そう言って、俺の胸に、子供のようにじゃれついてきた。俺は、そんな彼女の身体を強く抱きしめ、最後の言葉を告げる。
「菜月は、俺のものだ。……だから、菜月も、俺たちのこれからを、一緒に考えて、協力してくれないか?」
「……当たり前、じゃん……」
菜月は、涙声でそう答えると、俺の唇を、激しく塞いだ。それは、勝利のキスであり、そして、これからの未来を共に歩むという、共犯者としての、新しい契約の証だった。
その時だった。俺の右腕の中で、文香の身体が、微かに動いた。彼女は、いつから、目を覚ましていたのだろうか。ゆっくりと開かれたその瞳は、涙に濡れることもなく、ただ、静かに、俺と菜月の、その親密すぎるやり取りを見つめていた。その瞳には、嫉妬も、怒りも、絶望も浮かんでいない。あるのは、まるで難解な数式を解き明かしたかのような、冷徹なまでの、静かな理解の色だった。
彼女は、何も言わずに、ゆっくりと身体を起こした。そして、床に散らばった自分の服を、一枚、また一枚と、丁寧に拾い上げていく。その落ち着き払った仕草が、かえって、不気味なほどの威圧感を放っていた。
文香は、俺たちの前で、恥じらう素振りも見せず、その豊満な裸身に、白いブラウスを纏った。そして、スカートのホックを留めながら、初めて、俺の方を向いて、静かに、しかし、はっきりと、こう言った。
「……菜月さんの言う通りだね。佑樹君のその身体は、特別だもの。……でも、それだけじゃ、きっと、足りないんでしょう?」
その言葉は、菜月への挑戦状だった。彼女は、瞬時に、このゲームの本質を理解したのだ。佑樹を完全に手に入れるためには、彼の肉体や、過去の弱さを支配するだけでは、不十分だと。
彼女は、黒縁眼鏡をかけながら、続けた。
「佑樹君の心に、本当に触れる方法。……これから、ゆっくり、考えなくちゃね」
文香は、そう言うと、いつもの、あの感情の読めない、穏やかな笑みを浮かべた。その笑顔の裏で、彼女が、菜月とは全く異なる、より狡猾で、より長期的な戦略を練り始めていることを、俺と菜月は、痛いほど感じ取っていた。
菜月の優越感と、文香のしたたかな戦略性。俺たちの歪んだ三角関係は、一夜明けて、早くも、新たな、そしてより複雑な、暗黙の競争の段階へと、突入していた。
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