第36話 文香の進路への迷い


 夏休みが終わり、季節は緩やかにその装いを変え始めていた。アスファルトを焼いていた暴力的な日差しは和らぎ、夕暮れには涼しい風が吹くようになった。俺たちの歪んだ関係もまた、季節の移ろいと共に、その形を少しずつ変えながら、危うい均衡の上で続いていた。明日から新学期が始まるという、八月最後の夜。俺たちは、受験勉強という大義名分の下に、再び彰太の部屋に集まっていた。


 部屋には、四冊の、同じ大学のパンフレットが広げられている。それは、彰太が目指している、東京の難関私立大学のものだった。彼が取り寄せたものを、わざわざ俺たちの分まで用意してくれたのだ。その心遣いが、今はただ重かった。


「ここ、見てくれよ。このキャンパス、すごい綺麗じゃないか? 特に、この図書館。蔵書数が半端ないんだ。文香なら、絶対に気に入ると思う」


 彰太が、子供のように目を輝かせながら、パンフレットの一枚を指差した。その声は、未来への希望と、隣に座る恋人への揺るぎない愛情で満ち溢れている。彼の指先が示す先には、近代的な建築の美しい図書館の写真があった。全面ガラス張りの壁面から、柔らかな自然光が差し込む、知的な空間。それは、まさに、文学少女である文香にふさわしい、完璧な舞台のように見えた。彼の頭の中では、もう、そこで二人並んで本を読む、輝かしい未来が描かれているのだろう。


「……本当ね。すごいわ、彰太君」


 文香は、そう言って、穏やかに微笑んだ。その表情は、非の打ちどころのない、完璧な恋人のそれだった。しかし、俺には、その微笑みの裏に隠された、深い葛藤が見て取れた。彼女の視線は、パンフレットの上の、華やかなキャンパスライフの写真にはない。それは、テーブルの向かい側で、参考書に目を落とすふりをしている、俺の姿を、一瞬、しかし確かに、捉えていた。


 東京。その言葉の響きが、文香の心に、冷たい楔のように打ち込まれるのを、俺は感じていた。それは、彰太と二人で歩むはずだった、輝かしい未来の象徴。しかし、俺の肉体を知ってしまった今の彼女にとって、それは、抗いがたい悦びから、物理的に引き剥がされることを意味していた。


 彼女の脳裏に、二つの未来が、鮮明に、そして残酷なまでに具体的に浮かび上がっているに違いなかった。


 一つは、東京での未来。彰太の隣で、理想の恋人を演じ続ける日々。誰もが羨むような、知的で、洗練されたキャンパスライフ。しかし、その華やかな世界の夜は、きっと、凍えるように寒いのだろう。彰太の、あの純粋で、しかし、彼女の身体を決して満たすことのない、潔癖な愛情。その優しさに触れるたびに、彼女は、嫌悪感と、そして、俺の熱を思い出して、孤独な夜を過ごすことになる。それは、社会的成功と引き換えに、魂の半分を殺して生きる、緩やかな自殺にも似た日々だった。


 もう一つは、この地元に残る未来。佑樹と、そして菜月と同じ大学に通う、混沌とした日常。そこには、彰太と歩むはずだったような、輝かしい未来の保証はない。あるのは、罪悪感と、嫉妬と、そして、先の見えない、不安定な関係だけだ。しかし、そこには、熱があった。佑樹の、あの規格外の肉体がもたらす、理性を焼き尽くすほどの快感。彼の腕の中で、すべての仮面を脱ぎ捨て、ただの雌として、その欲望のすべてを解放することができる、唯一の場所。それは、社会的な安定を捨て、自らの本能に、正直に生きる道だった。


 文香の視線が、パンフレットの上を彷徨う。その指先が、東京のキャンパスの写真を、まるで汚れたものでも触るかのように、微かに震えながらなぞった。彼女の心は、既に、決まっていた。


 東京には、行かない。行けない。

 この身体は、もう、佑樹なしでは、生きていけないのだから。


 彰太と文香の間に横たわる、「未来の選択」という名の亀裂は、この瞬間、もはや修復不可能なほど、深く、そして大きく広がっていた。


「すごいな、東京の大学は。俺には、夢のまた夢だ。俺は地元の国立大学にしようと思っている。東京の一流大学よりは格落ちだが、地元で就職するなら不利はないと聞いている。俺は何かしたいというより就職するために大学に行くようなものだし、まだまだ頑張って勉強する必要はあるがな」


 俺は、この重苦しい空気を少しでも変えようと、わざと、おどけるように言った。その言葉が、文香の決意を、さらに後押しする、最後の一撃になるとも知らずに。


 文香は、俺のその言葉を聞くと、ふっと、口元を緩めた。その笑みには、安堵と、そして、俺と同じ未来を選ぼうとする、共犯者の、暗い決意の色が浮かんでいた。彼女は、俺が進路を変更しないことを確認し、自らの選択の正しさを、確信したのだ。


 彰太は、そんな俺たちの間の、見えない火花に、気づくはずもなかった。彼は、ただ、愛する恋人との、輝かしい未来を夢見て、パンフレットのページを、楽しげにめくり続けている。その無邪気さが、俺たちの罪を、より一層、深く、そして濃いものにしていた。この日から、文香の進路への迷いは、佑樹との関係を維持するための、したたかな人生の選択へと、その姿を変えていったのだ。

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