第25話 文香の決意:私も沼へ


 自室のドアを静かに閉めた瞬間、祭りの喧騒も、佑樹と菜月の軽口も、すべてが遠い世界の出来事のように遮断された。文香は、背中をドアに預けたまま、その場にずるずると崩れ落ちる。白い浴衣の裾が、埃一つないフローリングの上に、だらしなく広がった。心臓が、耳元で警鐘のように激しく鳴り響き、呼吸が浅くなる。彼女は、暗闇の中で、夏祭りの夜に握りしめた、あの小さな証拠をゆっくりと開いた。


 月明かりが、カーテンの隙間から一筋、部屋の中に差し込んでいる。その青白い光が、彼女の掌の上にある、くしゃくしゃになった薄いゴムを照らし出した。まだ微かに生温かく、鼻を近づければ、佑樹と菜月の体液が混じり合った、生命の匂いがする。それは、二人がつい先ほどまで、自分を待たせている間に、どこかで一つになっていたという、動かぬ証拠だった。


 抜け駆けされた。


 その言葉が、彼女の脳内で、毒のようにじわじわと広がっていく。ラブホテルでの一夜。あの時、確かに自分は「彰太とは友達に戻る」という、人生を懸けた最大の代償を支払う覚悟を、確かに口にしたはずだ。その覚悟をした自分に対し、佑樹は「味方だ」と言ってくれたはずだ。だから、三人の間には、自分が彰太との関係を清算するまでは、誰もが自重するという、暗黙の了解があるのだと、愚かにも信じていた。佑樹からの電話での優しい言葉も、二人きりのデートで見せた庇護欲も、すべてが、自分をこの歪んだ関係に繋ぎ止めておくための、巧妙な嘘だったのかもしれない。


 自分だけが、彰太への罪悪感という名の重い鎖に繋がれ、次の一歩を踏み出せずにいた。自分が「やるべきこと」を果たせていない。その不甲斐なさが、自分で自分の首を絞めている。その間に、菜月は、何の躊躇もなく、いとも容易く、佑樹を手に入れていたのだ。自分だけが、このゲームのルールさえ知らされず、蚊帳の外に置かれている。自分だけが、律儀に、そして愚かにも、次のアプローチを躊躇していた。その結果が、これだ。自分は、このゲームのプレイヤーですらない。ただ、二人の秘密を隠蔽するための、都合のいい駒に過ぎなかったのではないか。


 その時、枕元に置いていたスマートフォンが、短い着信音と共に、画面を光らせた。表示された名前は、「彰太君」。彼からの、無邪気で、そして今はあまりにも残酷なメッセージだった。


『文香、今日はごめん。後輩に捕まって、あまり一緒にいられなかったな。来週の週末、また埋め合わせさせてくれないか?』


 その、一点の曇りもない優しさ。誠実さ。それが、今の文香には、耐え難いほどの苛立ちとなって胸を焼いた。この清廉潔白な優しさが、自分の身体を満たしてくれないという、どうしようもない現実。この優しさに甘え、行動を起こさなかった自分のせいで、菜月に先を越されたのだ。この優しさに甘えている限り、自分は、永遠に菜月に勝てない。佑樹を手に入れることなど、できはしない。


 文香は、スマートフォンの画面を睨みつけながら、掌の中のコンドームを、爪が食い込むほど強く握りしめた。ぬるりとした感触が、彼女の指の間から溢れ出す。


 もう、待っているだけではだめだ。

 このまま、おとなしい文学少女の仮面を被り続けていれば、自分は、この歪んだ関係から、完全に弾き出されてしまう。菜月だけが、佑樹のすべてを手に入れる。そんな結末、絶対に許せない。


 彼女は、ゆっくりと立ち上がると、姿見の前に立った。そこに映っているのは、黒髪を清楚に結い上げ、どこか儚げな表情を浮かべた、いつもの「白石文香」だった。しかし、その瞳の奥では、もはや抑えることのできない、激しい嫉妬と独占欲の炎が、静かに、そして恐ろしく燃え上がっていた。


 被害者のままでは、終わらない。

 菜月が抜け駆けをしたのなら、自分も、同じ土俵に上がるまでだ。いや、もっと狡猾に、もっと大胆に、このゲームの主導権を、奪い返してやる。


 彼女の脳裏に、佑樹の家の間取りが、鮮明に浮かび上がった。彼の部屋。菜月と、あの甘い共犯関係を育んだ、密室。そこに、自分も乗り込んでいくのだ。アポイントなど、必要ない。奇襲こそが、彼らの築いた安寧を破壊し、自分という存在を、否応なく認めさせる、唯一の方法だった。


 文香は、掌の中の証拠を、机の引き出しの奥深くに、まるで大切な宝物のようにしまい込んだ。これは、切り札だ。いつか、このゲームの最終局面で、すべてをひっくり返すための。


 彼女は、スマートフォンの画面に、彰太への返信を打ち込み始めた。


『気にしないで。先輩も大変だね。ごめん、今日は人混みで少し疲れたみたい。夏休みの課題もまだ残ってるし、少し勉強に集中するね。おやすみ』


 完璧な恋人を演じる、その指先は、しかし、微塵も震えてはいなかった。彼女の心は、既に、冷徹な決意で満たされている。


 明日、佑樹の家に行こう。

 そして、証明してやるのだ。佑樹の身体を、心を、本当の意味で満たすことができるのは、菜月ではなく、この私なのだと。


 文学少女の仮面の下で、彼女は、静かに自分自身の欲望に正直になることを選んだ。この決意が、彼らの夏休みを、そして未来を、取り返しのつかない泥沼へと引きずり込んでいくことを、彼女は、むしろ望んですらいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る