第24話 嫉妬の爆発:握りしめたコンドーム


 林の奥へと消えていった佑樹と菜月の背中を、文香はただ呆然と見送ることしかできなかった。祭りの喧騒が、急に遠い世界の出来事のように感じられる。太鼓の音も、人々の楽しげな笑い声も、まるで厚いガラスを一枚隔てたかのように、彼女の耳には届かない。代わりに、心臓が耳元で大きく脈打つ音だけが、やけにリアルに響いていた。「トイレに行く」という、あまりにも拙い佑樹の嘘。そして、その嘘に迷いなく追従した、菜月の挑戦的な瞳。二人の間に流れた、あの共犯者特有の濃密な空気は、文香の胸を鋭い刃物で抉るように、冷たい痛みを走らせた。


 一人取り残された彼女は、行き交う人々の波に逆らうように、神社の境内から少し離れた、提灯の光が届きにくい場所へと、無意識のうちに歩を進めていた。人いきれと甘い食べ物の匂いから逃れるように、少しでも涼しい空気を求めて。彰太は、まだ後輩たちに捕まっているのだろう。彼が戻ってくる前に、このどうしようもなく乱れた心を、少しでも落ち着かせなければならない。完璧な恋人としての仮面が、今にも剥がれ落ちてしまいそうだった。自分が彰太との関係を清算するという、最も重い代償を支払う覚悟を決めるまで、事を荒立てるべきではない。そう自分に言い聞かせてきたはずなのに、胸の奥で燻る嫉妬の炎は、じりじりと彼女の理性を蝕んでいく。


 どれくらいの時間が経っただろうか。十分か、あるいは三十分か。夜の闇に感覚が麻痺し、時間の流れさえも曖昧になっていた。ふと、祭りの喧騒の中から、聞き慣れた二つの声が近づいてくるのに気づいた。佑樹と、菜月だ。


「もう、あんたのせいで、足、泥だらけじゃんか!」

「うるせえな。お前が誘ったんだろ」


 軽口を叩き合いながら現れた二人の姿を見て、文香の心臓が、再び嫌な音を立てて跳ねた。彼らは、努めて普段通りを装っている。しかし、その演技は、あまりにも拙劣だった。佑樹のTシャツの背中には、土で汚れたような跡が微かに残り、菜月のポニーテールは、林に入る前よりも、明らかに乱れている。そして何よりも、二人の肌から放たれる、情事の後の、あの独特の匂い。汗と、土と、そして生命の匂いが混じり合った、甘く重い香りが、夜風に乗って文香の鼻腔を微かにくすぐった。その匂いは、ラブホテルで彼女自身が体験した、あの背徳の夜の記憶を、鮮明に蘇らせる。


「あ、文香。ごめん、待たせたな」


 佑樹が、ばつが悪そうに、視線を逸らしながら言った。


「ううん、大丈夫だよ。彰太君も、まだみたいだし」


 文香は、完璧な微笑みを顔に貼り付けた。心の中では、嫉妬と絶望の嵐が吹き荒れている。自分だけが、このゲームのルールさえ知らされず、蚊帳の外に置かれている。自分だけが、彰太への罪悪感に苛まれ、次の一歩を踏み出せずにいる間に、菜月は、いとも容易く、欲しいものをその手に収めている。このままでは、自分だけがこの歪んだ関係から弾き出されてしまう。その考えが、彼女の自己肯定感を、粉々に打ち砕いていく。


「ちょっと、そこのゴミ箱に、これ捨ててくるわ」


 菜月が、そう言って、手に持っていた小さなビニール袋をひらひらとさせた。中には、食べ終えたりんご飴の芯や、空になったペットボトルが入っている。彼女は、文香の目の前を、何事もなかったかのように通り過ぎ、少し離れた場所に設置されたゴミ箱へと向かった。


 その、あまりにも無防備で、あまりにも無神経な行動が、運命の引き金を引いた。


 菜月が、ビニール袋の口を開け、中のゴミを分別しながら捨てようとした、その瞬間だった。彼女の手元から、何か小さなものが、ころりと滑り落ちた。それは、月明かりを鈍く反射する、小さな銀色の包装紙。そして、その包装紙から、ゴム特有の生々しい匂いと共に、白い半透明の物体が、ぬるりと転がり出た。


 使用済みの、コンドーム。


 それは、ゆっくりと、まるでスローモーションのように、地面を転がり、文香の浴衣の足元で、ぴたりと動きを止めた。まだ、二人の体温と、生々しい愛液の湿り気を、微かに残しているかのように。


 文香の思考が、完全に停止した。世界の音が、消える。祭りの喧騒も、虫の鳴き声も、すべてが遠ざかり、ただ、目の前にある、その小さな、しかし、あまりにも雄弁な証拠だけが、彼女の世界のすべてとなった。


 抜け駆けされた。


 その一言が、彼女の脳内で、雷鳴のように轟いた。自分は、彰太との関係を清算するという、人生を懸けた決断を前に、苦悩し、立ち止まっていたというのに。その間に、菜月は、何の躊躇もなく、佑樹との関係を深化させていたのだ。自分だけが、この歪んだ三角関係の中で、律儀に、そして愚かにも、次のアプローチを躊躇していた。その結果が、これだ。自分は、このゲームのプレイヤーですらない。ただ、二人の秘密を隠蔽するための、都合のいい駒に過ぎなかったのではないか。


 強烈な絶望が、冷たい水のように、彼女の全身を駆け巡った。足元から、急速に血の気が引いていく。同時に、腹の底から、焼け付くような、激しい嫉妬の炎が燃え上がった。なぜ、菜月だけが。なぜ、自分ではないのか。佑樹のあの熱を、あの大きさを、あのすべてを、今この瞬間も、独占しているのは、なぜ、あの女なのか。その事実は、文香のプライドを、ズタズタに引き裂いた。


 幸いなことに、佑樹も菜月も、その小さな落下物には気づいていないようだった。菜月は、残りのゴミを捨て終えると、「さて、彰太、遅いねー」と、呑気な声で言って、佑樹の元へと戻っていく。


 文香は、動けなかった。ただ、足元のそれを見つめたまま、全身を硬直させていた。しかし、その内側では、彼女の理性が、激情によって、完全に焼き尽くされようとしていた。


 このまま、見過ごすのか。この屈辱を、知らぬふりをして、また明日から、優等生の仮面を被り続けるのか。


 いやだ。


 その瞬間、彼女の中で、何かが、ぷつりと切れた。


 文香は、周囲に誰もいないことを、冷静に、そして素早く確認した。そして、まるで夜の闇に溶け込む影のように、音もなく、その場に屈み込んだ。白い浴衣の袖が、地面の土で汚れるのも構わずに。


 震える指先が、その生温かい物体に触れる。薄いゴムの、ぬるりとした感触。そして、鼻腔を突く、精液と愛液の、濃厚な匂い。それは、佑樹と菜月が、つい先ほどまで、一つになっていたという、動かぬ証拠だった。


 文香は、誰にも気づかれることなく、その証拠を、素早く、そして力強く、右の掌の中に握りしめた。そして、何事もなかったかのように、すっと立ち上がった。


 彼女の拳の中で、薄いゴムが、ぐにゃりと歪む。その感触が、彼女の絶望と嫉妬を、硬く、そして冷たい、一つの決意へと変質させていった。


 もう、待っているだけではだめだ。自分も、このゲームのプレイヤーにならなければ。


 文香は、彰太が戻ってくるであろう方向を見つめた。その顔には、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいる。しかし、その瞳の奥では、抜け駆けされた屈辱と、すべてを破壊してでも、欲しいものを手に入れるという、激しい嫉妬の炎が、静かに、そして恐ろしく燃え上がっていた。彼女の白い拳の中で、握りしめられたコンドームが、その決意の証として、固く、冷たくなっていた。

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