第26話 アポなしの訪問と隠蔽の失敗


 夏の終わりの気怠い午後、俺の部屋は、昨夜の菜月との情事の熱がまだ微かに残っているかのように、濃密な空気に満たされていた。彼女が帰った後、俺は罪悪感と、それを上回る得体の知れない高揚感の狭間で、ほとんど眠ることができなかった。窓から差し込む西日が、部屋の埃をきらきらと照らし出し、散らかった漫画雑誌の山に長い影を落としている。このありふれた日常の光景が、今や俺たちの歪んだ関係の舞台となっている。その事実に、俺はめまいにも似た倒錯的な快感を覚えていた。


 菜月との絆は、あの夏祭りの夜を経て、より深く、そしてより危険なものへと変質した。俺たちはもはや、ただの幼馴染ではない。誰にも知られてはならない秘密を共有し、互いの身体の最も深い場所で繋がり合った、運命共同体だ。その排他的な絆が、俺に生まれて初めての、揺るぎない自己肯定感を与えてくれていた。


 しかし、その安寧は、常に文香という影の存在によって脅かされている。彼女が夏祭りの夜に見せた、あの寂しげな瞳。そして、その後に送られてきた、彰太への偽りのメッセージ。彼女の文学少女の仮面の下に隠された、底知れない激情を思うと、俺の背筋は冷たくなった。彼女は、いつ、どんな形で、俺たちのこの脆い均衡を破壊しに来るか分からない。


 その予感は、あまりにも早く、そしてあまりにも唐突に、現実のものとなった。


 ピーンポーン。


 不意に、玄関のインターホンが鳴り響いた。こんな時間に、誰だろうか。両親はまだ帰宅していないはずだ。俺は、ベッドから気怠く身体を起こし、玄関のドアへと向かった。ドアスコープを覗き込んだ瞬間、俺の心臓は、氷水で冷やされたかのように、一気に収縮した。


 そこに立っていたのは、白いワンピースに身を包んだ、白石文香だった。


 なぜ、彼女がここに。アポイントもなしに。俺の脳内で、警報がけたたましく鳴り響く。昨夜、菜月がこの部屋にいたという事実。そして、俺たちの身体が交じり合った、生々しい痕跡。それらが、一瞬にして俺の思考を支配した。


「……文香? どうしたんだ、急に」


 俺は、ドアを数センチだけ開け、努めて平静を装って声をかけた。しかし、その声は、自分でも分かるほどに上ずっていた。


「こんにちは、佑樹君。ごめんね、突然。昨日のお祭りの時、ハンカチを貸してくれたでしょう? 洗濯してきたから、返しに来たの」


 文香は、そう言って、完璧にアイロンがかけられた、清潔なハンカチを差し出した。その口実は、あまりにも完璧で、疑う余地がない。しかし、彼女の黒縁眼鏡の奥の瞳は、笑っていなかった。その瞳は、冷徹なまでに静かに、俺の内面を見透かそうとしているかのようだった。


「ああ、そんなの、別に良かったのに。……ありがとう」


 俺がハンカチを受け取ろうとした、その瞬間だった。文香は、するりと、猫のようにしなやかな動きで、ドアの隙間から家の中へと滑り込んできた。


「少し、上がらせてもらってもいいかな。喉が渇いちゃって」


「あ、ああ……」


 俺に、拒否する選択肢はなかった。彼女は、既にこのゲームの主導権を握っている。


 俺が麦茶を準備している間、文香は、まるで自分の家のように、リビングを抜け、俺の部屋へと続く廊下を、ためらいなく歩いていく。その背中からは、昨夜、自分だけが蚊帳の外に置かれたことへの、静かな怒りと、すべてを暴き立ててやるという、冷徹な決意が滲み出ているようだった。


 まずい。


 俺の頭の中は、パニックで真っ白になった。部屋の中は、昨夜の菜月との情事の痕跡で満ちている。乱れたベッド。床に落ちたままの、彼女の髪留め。そして何よりも、この部屋に充満している、二人の体液が混じり合った、あの独特の匂い。


 俺は、慌てて部屋に駆け込んだ。文香は、部屋の中央に立ち尽くし、ゆっくりと、獲物を品定めするかのように、部屋の隅々を見渡している。


「ご、ごめんな。散らかってて」


「ううん、気にしないで。男の子の部屋って、こんな感じだよね」


 彼女は、穏やかな口調でそう言いながら、鼻を、微かにひくつかせた。間違いない。彼女は、この部屋の匂いを、探っている。


「なんか、変な匂いしない? 少し、窓、開けてもいいかな」


 文香がそう言うのと、俺が慌てて消臭スプレーを手に取ったのは、ほぼ同時だった。


「ああ、昨日の夜、ちょっと友達とピザ食ってさ! その匂いが残ってるのかもな!」


 俺は、しどろもどろに、あまりにも拙い言い訳を口にしながら、部屋中にファブリーズを撒き散らした。シトラスの爽やかな香りが、昨夜の淫靡な匂いを、必死に上書きしようとする。しかし、その必死な行為こそが、俺の罪を、より雄弁に物語ってしまっていた。


 文香は、そんな俺の様子を、ただ静かに、そして冷たい瞳で見つめていた。彼女は、何も言わない。その沈黙が、何よりも雄弁に、俺を断罪していた。


「……そうなんだ。楽しそうだね、佑樹君は」


 その言葉には、棘があった。


 俺は、これ以上この部屋にいさせるのは危険だと判断し、彼女をリビングへと促そうとした。


「さ、座ってくれよ。麦茶、持ってくるから」


 俺が彼女の肩に手をかけようとした、その瞬間だった。文香の視線が、俺のベッドの脇、机の脚の影になっている、ある一点に、吸い寄せられた。


 そこには、昨夜、俺たちが使った、コンドームの、銀色の包装が、一枚だけ、落ちていた。菜月が帰る時に、慌ててゴミをまとめた際、見落としてしまったのだろう。


 時間が、止まった。


 文香は、ゆっくりと、その場に屈み込んだ。その指先が、まるで貴重な考古遺物を拾い上げるかのように、その銀色の包装紙を、そっと摘み上げる。


「……これは、何かな。佑樹君」


 彼女は、立ち上がると、その包装紙を、俺の目の前に、突きつけた。その声は、もはや優等生の仮面を被ってはいない。それは、裏切り者を断罪する、冷たく、そして絶対的な響きを持っていた。


 俺の全身から、一気に血の気が引いた。言い訳の言葉など、何一つ、思い浮かばなかった。俺の隠蔽工作は、あまりにも無残に、そして完璧に、失敗したのだ。


 文香は、俺の絶望した顔を見て、初めて、その口元に、微かな、そして勝利を確信した笑みを浮かべた。


「菜月さんと、楽しかったみたいだね」


 その言葉は、もはや質問ではなかった。それは、この歪んだ三角関係において、彼女が、完全に主導権を掌握したことを告げる、冷徹な勝利宣言だった。俺と菜月の秘密は、この瞬間、完全に彼女の手に落ちたのだ。

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