第12話 帰り道の誘惑
桐生彰太の家からの帰り道、午後八時の街の空気は、日中の湿った熱を失い、微かな涼しさを帯びていた。しかし、佑樹の背中を流れる汗は、外気の涼しさとは関係なく、ひやりとした冷たさを感じさせていた。彰太の部屋での数時間が、彼らの三人に与えた精神的な負荷は、あまりにも重かった。あの部屋は、彰太の誠実さと努力の結晶が詰まった、あまりにも清廉な空間だった。その「清潔さ」が、彼らの間に築かれた「秘密の協定」という、泥にまみれた構造物を、一瞬たりとも休ませてはくれなかった。佑樹の心臓は、裏切りの罪悪感と、昨夜の情事の快感の記憶が交錯する衝動で、ずっと重く鈍い痛みを訴えていた。
文香が、いつものように彰太の家の前でしばらく立ち止まり、彼が部屋の窓から見送るのを待ってから、三人はゆっくりと歩き出した。文香は、最後まで完璧な恋人を演じきり、その優等生らしい打算と、肉体の快楽を知った激情とのギャップが、佑樹の背徳的な欲望を、改めて刺激した。
「私、この角で失礼しますね。彰太君が部屋に戻るのを確認してから、私の方から少しメッセージを入れておきたいので」
文香は、交差点で立ち止まると、黒縁眼鏡のブリッジを直し、落ち着いた声で言った。その一言は、彰太への気遣いではなく、自分たちの秘密が漏れないようにするための、周到なアリバイ作りだった。彼女は、佑樹と菜月を交互に見て、微かに微笑んだ。その微笑みには、二人の幼馴染との間に成立した歪んだ秘密の連帯感と、罪の匂いが混じっている。文香の瞳には、既に佑樹との秘密の関係の継続という、能動的な決意が宿っていることを、佑樹は肌で感じ取っていた。文香が去るということは、彼らの上に張り詰めていた緊張の糸が、一本緩むことを意味していた。彼女がその場を去る瞬間、佑樹は得体の知れない解放感を覚えた。
「では、また月曜日に、佑樹君、菜月さん」
文香が夜の闇へと溶けていった後、佑樹は隣に立つ菜月へと向き直った。菜月は、既に文香のことなど頭になく、つまらなさそうに肩を竦めていた。彼女の表情は、共犯者としての冷めた本音を露わにしている。
「つまんねえの。あいつの優等生ごっこ、いつまで続くんだか」
「放っとけよ。それが、あいつの協定だ」
二人の会話は、既に日常の仮面を脱ぎ捨て、共犯者の間の生々しい本音に切り替わっていた。佑樹の心の中で、衝動的な欲望が、罪悪感を完全に凌駕し始めていた。彰太の部屋で味わった、あの耐え難い自己嫌悪は、肉体的な快感によってしか埋めることができない、深い空洞へと変わっていた。彼は、自分の人生に失われた「何か」を、この背徳的な行為でしか埋められないことを、無意識のうちに理解していた。
彼の右手が、無意識のうちに、菜月の左手の甲に触れた。菜月の肌は、夜の風に冷えているが、すぐに彼の熱を吸い取り、熱を持った。
「なぁ、菜月」
佑樹は、喉が渇き、声を出すのが辛かった。しかし、その言葉は、既に制御できない衝動に突き動かされていた。彼は、この一週間、ずっとこの瞬間を待ち望んでいた。
「まだ、時間が早いだろ。……うちに来いよ」
佑樹の誘いは、理性による判断ではなく、昨夜の快感を再び求めるための、切実で衝動的な要求だった。彼は、この綱渡りのような罪を、菜月との肉体的な繋がりによって確認し、自分たちの関係の異質さを安定させたかった。
菜月は、佑樹の誘いを聞き、夜の街灯の下で、一瞬、立ち止まった。彼女の丸い瞳が、キラリと光った。彼女の顔には、彰太に対する罪悪感は微塵もない。あるのは、興奮と、優越感、そして期待だけだった。彼女の口角が、ゆっくりと、挑戦的な弧を描いた。
「へえ、あんたから誘うなんて、珍しいね。文香との協定、もう破るつもり?」
菜月は、佑樹の罪の意識を試すように、あえて挑発的な言葉を選んだ。彼女にとって、この行為は、文香から佑樹を奪うという、能動的なゲームであり、佑樹の自分への忠誠心を確認するための儀式でもあった。
「破るとか、破らないとか、そんなこと、どうでもいい。……ただ、お前が欲しい」
佑樹は、理屈ではない、本能的な欲望を言葉にした。この「ただお前が欲しい」という、偽りのない剥き出しの欲望の告白が、菜月の独占欲を最大限に満たした。彼女は、文香への対抗意識と、佑樹への支配欲を、この誘いに乗せることで、一気に高めた。
「ふうん。いいよ」
菜月は、即座に、二つ返事で応じた。彼女の返答には、迷いは一切なかった。
「私も、あんたが欲しかったところだ。彰太の優等生ぶりを見た後じゃ、余計にね。私たちだけの、秘密の続きをしようよ。もっと、刺激的なスリルを見せてくれるんでしょ、佑樹」
菜月は、そう言って、佑樹の手を、さらに強く握りしめた。彼女は、佑樹の屈辱と罪悪感を、自分たちの特別な絆を深めるための「スリル」という材料として利用したのだ。彼女の心の中には、文香への優位性を、肉体で確固たるものにするという、能動的で冷徹な決意が漲っていた。
二人は、幼馴染の友情が崩壊した後の、歪んだ共犯関係という名の、新しい境界線を歩き始めた。彼らの向かう先は、佑樹の自室。そこは、肉欲と秘密によって完全に侵食された、彼ら二人のための新たな密室となる場所だった。夜の街の喧騒は、彼らの耳には届かない。彼らの心を満たしているのは、ただ一つ、自分たちの秘密の熱だけだった。
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