【DB哲・クリリンと18号】「愛は地球を救うのか? ――クリリンが映す“人間の弱さ”と愛の存在意義」
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
力が全てを決める私たちの世界とドラゴンボールの世界において、『愛』は時に無力ではないだろうか…
愛は地球を救うのか?
「愛は地球を救う」――この言葉は長年、希望の象徴として使われてきた。だが、その言葉の裏には、誰もがうすうす感じている違和感がある。
本当に、愛で地球は救えるのか?
力によって支配しようとする者がいるこの世界で、愛はいつも敗北するのではないか?
ドラゴンボールの世界を思い浮かべるとき、その問いは一層鮮明になる。
そこは、力が全てを決める世界である。強者が正義であり、勝者が歴史をつくる。
そんな世界で、愛はどれほどの意味を持ちうるのか。
その問いに対する最も人間的な答えを体現しているのが――クリリンである。
クリリンという「弱さ」
悟空は純粋で、ベジータは誇り高い。ピッコロは超越的で、フリーザは悪の象徴。
では、クリリンは何を象徴しているのか?
彼は人間の“弱さ”そのものである。
恐れ、迷い、逃げ出す。
しかし、それでも戦い、仲間を信じ、愛する。
彼は「力のない者が、それでも生きようとする姿」を描き出している。
ドラゴンボールは少年漫画でありながら、神々や宇宙の秩序をも越えるスケールを描く。
その中で、クリリンは一貫して「人間の限界」を示す存在として立ち続ける。
彼がいなければ、物語は単なる力の競演に堕していたかもしれない。
クリリンは“人間の現実”を作品に留めるための錨(いかり)なのだ。
クリリンが体現する「愛の不完全さ」
愛はしばしば、強さの象徴として語られる。
「仲間を愛する力が奇跡を起こす」「愛が人を成長させる」。
だが、クリリンの愛は違う。彼の愛は、弱さと矛盾を孕んでいる。
人造人間18号を愛した彼の姿には、美しさと同時に危うさがある。
敵であった彼女を信じ、緊急停止用のコントローラーを壊す行為は、戦略的には愚かだ。
しかし、彼はその愚かさを選んだ。
それは、愛が理性を超える力であることを示している。
愛は人を盲目にする。
愛は判断を鈍らせる。
しかし、その「非合理」こそが愛の本質である。
もし愛が常に正しく、常に勝利するなら、それはもう“愛”ではない。
愛は敗北をも受け入れる力であり、矛盾を抱えてなお生きようとする心そのものなのだ。
「愛」と「力」の対立構造
ドラゴンボールの世界では、すべての価値が力に帰着する。
強い者が生き残り、弱い者は淘汰される。
そして、
悟空は「愛によって戦う者」であり、クリリンは「愛によって迷う者」である。
つまり、愛が力を導く場合もあれば、愛が力を奪う場合もある。
悟空の愛は神的で、純粋で、破綻を知らない。
一方、クリリンの愛は人間的で、不安定で、しばしば裏切られる。
この二つの愛の差が、ドラゴンボールの“人間ドラマ”を成立させている。
愛は力と並び立つものではない。
愛は力によって試され、力は愛によって意味づけられる。
両者の間にある緊張こそが、「生きる」という行為の真実を映しているのだ。
愛の無力さと必要性
「愛は地球を救う」という言葉を、もしドラゴンボールの世界に持ち込めば、それは嘘になる。
愛ではフリーザを倒せないし、セルも止められない。
現実の世界でも、暴力や戦争は愛によって止まらない。
だが――
愛がなければ、悟空は戦わなかった。愛がなければ、ベジータは変わらなかった。
愛は「世界を救う力」ではなく、「世界を生きる意味」なのだ。
つまり、愛は“地球を救う”のではなく、“地球に生きることを救う”。
これは決して理想論ではない。
むしろ現実の中で最も厳しい真理だ。
愛は世界を変えられないが、愛がなければ世界を感じることさえできない。
人は愛によって傷つき、裏切られ、しかしそれでも生きる。
その繰り返しこそが「生きる」ということの本質なのだ。
クリリンの「弱さ」とは何か
クリリンには人間としての弱さがある。
それは臆病さ、迷い、恐怖、そして依存である。
しかし、その弱さは「欠点」ではない。むしろ「人間である証」だ。
悟空のように純粋でほとんど恐れを知らぬ者は、もはや人間ではない。
クリリンは“恐れる勇気”を持っている。
彼は世界の恐ろしさを知りながら、それでも立ち上がる。
その姿に、人間という存在の根源的な“矛盾の美”がある。
人間は完全ではない。
愛しながら裏切り、信じながら疑い、立ち上がりながら怯える。
だが、それでも人は愛を選ぶ。
なぜなら、愛を選ばなければ生きる理由を見失うからだ。
愛は「目的」ではなく「意味」
「愛は地球を救う」という言葉の最大の誤りは、愛を“手段”として扱っている点にある。
愛は何かを得るために存在するものではない。
愛は何かを“する”ための力ではなく、何かを“感じる”ための存在そのものだ。
悟空が地球を救うのは、地球が好きだから。
クリリンが仲間を信じるのは、仲間が好きだから。
そこには損得も義務もない。
ただ「生きることに意味を与える感情」としての愛がある。
だからこそ、愛は結果を求めない。
たとえ地球が滅びようとも、愛したという事実は失われない。
愛とは、「世界を救う」ことではなく、「世界を意味づける」ことなのだ。
悟空とクリリン――理想と現実
悟空は「理想の愛」を体現している。
それは純粋で、強く、揺るがない。
だが、その愛は人間には真似できない。
一方、クリリンは「現実の愛」を体現している。
それは弱く、揺らぎ、時に間違える。
だが、私たちの生きる現実は、常にクリリンの側にある。
悟空が理想であるならば、クリリンは私たち自身である。
だからこそ、彼を見るとき、私たちは“自分の弱さ”を突きつけられる。
そして、多くの人が彼のことを、「あまり好きではない」と思ったりもする。
だが、それこそが真実だ。
なぜなら、人間とは、自らの弱さを最も嫌いながらも、そこからしか成長できない存在だからだ。
終わりに:「愛は地球を救わない。しかし、人間を救う」
クリリンは地球を救わなかった。
悟空のような奇跡も起こさなかった。
しかし、彼は「愛すること」を捨てなかった。
それは、地球を救うためではなく、生きることを救うためだった。
愛があるから、人は立ち上がり、また倒れ、また立ち上がる。
それが人間という存在の宿命であり、美しさである。
「愛は地球を救う」――その言葉は正確ではない。
しかし、「愛があるからこそ、人はこの地球に“生きる意味”を見出せる」。
その真実の前では、もはや“救う”という概念すら小さく思える。
クリリンは教えてくれる。
愛は時に無力であり、しかし不可欠である。
そして――
愛は世界を救う“手段”ではなく、世界を“救う意味そのもの”である。
【DB哲・クリリンと18号】「愛は地球を救うのか? ――クリリンが映す“人間の弱さ”と愛の存在意義」 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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