第3話 不信の壁を越えて


​華やかな国際会議から戻った陽菜を待っていたのは、再び容赦なく照りつける太陽と、ラシードの冷ややかな視線だった。


​「どうだった? 演説で、我々の物資は満たされたか?」


​陽菜は疲労を隠し、静かに答えた。


「申し訳ありません。決定的な支援の増加は、まだ。しかし、交渉のチャンネルは維持しています。」


​ラシードは鼻で笑った。


「チャンネル? 我々が必要なのは水だ、ホシノ。お前たちの言葉の『水』ではない。飢えた子どもたちは、美しい言葉では満たされない」


​彼の言葉は、陽菜が国際会議で感じた無力感を鋭くえぐるものだった。だが、彼女は反論しなかった。ただひたすらに、現地スタッフの仕事を見つめ、彼らが軽視するような雑用にも積極的に手を出した。水汲み、食糧の仕分け、怪我をした子どもたちの介助。彼女は、本部からの人間としての威厳をかなぐり捨て、ただの働き手として泥にまみれた。


​ある日の午後、キャンプにいる孤児たちを対象とした臨時の診療所で、陽菜は一人の老人医師と出会った。地元の開業医だったが、紛争で全てを失い、今はボランティアとしてこの地で人々の治療にあたっているムスタファ医師だ。


​「若い人道支援家さん。君は素晴らしい言葉を持っているようだが、彼らに何を与えられる?」


ムスタファ医師は、点滴を準備しながら穏やかに尋ねた。


​「…私は、彼らに命の機会を与えたい。教育、安全、そして希望を」陽菜は率直に答えた。


​ムスタファ医師は深いため息をついた。


「希望は、腹が満たされた後に初めて生まれる。今、彼らに最も必要なのは、抗生物質だ。そして、明日も生きられるという確証だ」


​その夜、陽菜は「グローバル・ハート」の備蓄倉庫を調べていた。現地で最も不足している抗生物質が、本部から送られてきた大量の支援物資の山に埋もれているのを見つけた。それは、支援国側が手配したものの、現地の病院ではなく、団体の倉庫に保管されている、書類上の「実績」のための物資だった。


​彼女は葛藤した。本部の規定では、勝手に物資を移動させることは厳禁だ。それは、彼女のキャリアを失わせる可能性があった。だが、ムスタファ医師の言葉が頭から離れない。


​「明日も生きられるという確証だ」


​翌朝早く、陽菜はラシードに声をかけた。


「ラシードさん。抗生物質のリストを見せます。これをムスタファ医師の診療所に運んでほしい」


​ラシードは驚き、不信感を露わにした。


「ホシノ、何をするつもりだ? 本部からの命令なしに動けば、お前は…」


​「これが、私の叫びです。命の危機に瀕している目の前の患者に、なぜ規則を優先しなければならないのですか? 私は、誰かの命を救うという見返り以外、何も求めていません」


陽菜の目には、迷いではなく、確固たる決意の光が宿っていた。

​陽菜の言葉と、土埃にまみれても諦めない彼女の姿勢に、ラシードの表情がわずかに揺らいだ。彼は、本部から来た人間は皆、自らのキャリアを優先すると知っていた。だが、目の前の陽菜は、自分の未来よりも、目の前の命を選ぼうとしていた。


​「…分かった。俺が運転する。見つかっても、ホシノ、お前は何も知らなかったことにしろ」


​ラシードはそう言って、重い倉庫の扉を開けた。

​陽菜は、彼に深々と頭を下げた。それは、不信の壁を越え、初めて現地の人々と心を一つにした瞬間だった。


​抗生物質を積んだ車が難民キャンプへと向かう道中、後部座席で荷物に寄りかかりながら、陽菜は窓の外の荒涼とした景色を見ていた。道は険しく、常に武装勢力の検問におびえる。しかし、彼女の心は、国際会議場の時よりもずっと、満たされ、晴れやかだった。

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