第2話 最初の土埃(ほこり)と国際会議の壁
太陽は容赦なく照りつけ、乾いた風が吹きつける。機体のタラップを降りた瞬間、陽菜の肺に飛び込んできたのは、熱気と、遠くで燃える何かと、そして圧倒的な土埃の匂いだった。ここは、彼女が映像や資料でしか知らなかった、紛争と貧困が日常の場所、支援活動の拠点となっている国境近くの小さな町だった。
国際的に有名な支援団体「グローバル・ハート」の腕章をつけた現地のスタッフが、陽菜を迎えに来た。挨拶もそこそこに、彼女はすぐに四輪駆動のボロボロの車に押し込まれた。
「ホシノ、遅い。本部からの人間はいつも遅い」
運転席の男性、ラシードはそう言って、陽菜を歓迎する言葉は一切なかった。彼は長年この地で活動しているベテランの現地スタッフだ。彼の顔には疲労と不信感が張り付いていた。
「すみません、ラシードさん。私は今日から現場責任者の補助として…」
「補助? いらない。必要なのは、物資と金だ。座っている本部の人間より、手を動かす人間がな」
陽菜は黙ってシートに座った。現地の支援活動がいかに切迫し、本部の事務的な判断に苛立っているかを感じ取った。彼女はすぐにでも手を動かしたかったが、まずはこの地のルールと、現実の厳しさを学ぶ必要があった。
彼らが向かったのは、武装勢力の支配地域に近く、常に危険に晒されている臨時難民キャンプだった。陽菜が写真で見た子どもたちと寸分違わない、栄養失調で眼が窪んだ子どもたちが、彼女が到着した車を遠巻きに見つめていた。その瞳には、好奇心よりも警戒の色が濃かった。
キャンプを視察し、陽菜は言葉を失った。医療品は底を突き、水は限られ、最低限の食糧が配給されているだけだ。理論や資料で理解していた「極限状態」は、匂いと、熱と、沈黙の中で訴えかけてくる生々しい現実だった。
数週間後、陽菜は「グローバル・ハート」の新人として、現地の状況を世界に訴える任務を初めて与えられた。それは、遠くヨーロッパの都市で開催される国際会議の場で、支援国政府の代表団を前に演説することだった。
煌びやかなシャンデリアが輝く会議場。陽菜は、着慣れないスーツに身を包み、冷徹な視線を向ける各国代表団の前に立った。彼女の胸ポケットには、ラシードから預かった、物資不足で亡くなった子どもの小さな木彫りの人形が入っていた。
演説の原稿は、本部の事務的な言葉で埋められていた。しかし、陽菜はそれを無視した。
「皆様」
彼女は切り出した。流暢で知的な英語だったが、その声は微かに震えていた。
「私は、先週までこの世界の、ある『隅』にいました。統計では、そこは『避難民1万人、食糧供給率40%のレッドゾーン』とされます」
陽菜は一度、言葉を切った。
「しかし、私が見たのは、その40%に届かない食事を、3人の弟に譲った7歳の少女です。彼女の名前はサミラ。彼女は『統計』ではなく、『命』です」
彼女は、現地で目撃した具体的な飢餓の顔、水のために命を落とした老人の話、夜中に武装集団が襲ってきた時の子どもたちの怯えた沈黙を、感情を抑えながらも、全身全霊で訴えた。
「この会議室にある、どのシャンデリアよりも、難民キャンプの片隅で灯る小さなランプの光の方が、ずっと重い価値を持っています。私たちが議論している『コスト』は、彼らにとって『生存のチャンス』そのものなのです」
演説が終わった瞬間、会議場は一瞬の静寂に包まれた後、事務的な拍手で満たされた。
会議は翌日も続き、陽菜の演説に感動したという政府関係者もいた。しかし、結果はいつも同じだった。各国は、自国の利益、外交上のバランス、そして「安全上のリスク」を盾に、決定的な支援増加の約束を渋った。
支援の壁は、現地にだけあるのではない。むしろ、この豊かな場所で、無関心という名の目に見えない、強固な壁となって立ちはだかっている。
ホテルの部屋に戻った陽菜は、スーツを脱ぎ捨てた。疲労と無力感で、体が鉛のように重い。ラシードの不信感、サミラのような孤児の瞳、そして会議室の冷たい拍手。すべてが彼女の胸を締め付けた。
彼女は、ポケットから小さな木彫りの人形を取り出し、強く握りしめた。
「見て見ぬふりはしない。私は叫び続ける」
これが、星野陽菜が紛争地の土埃と、国際社会の無関心という、二つの戦場で闘い始める最初の夜だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます