深淵の淵
彼女には、重要な感情、所謂人が危険を感じるための機能が損なわれていた。
サイコパスとは違う――それは、悪意や支配欲に根差した反社会的な冷酷さではない。
少女の欠陥は、感情的な麻痺ではなく、生物が持つはずの生存本能の根幹にある生の警報信号──つまりは
倫理や規範を破ることへの躊躇は、他者の苦痛への共感、そして社会からの排斥への恐怖によって形成される。
少女にはその両方が欠けていた。
ゆえに、少女の思考回路は「ニンゲン」という生物らしからぬ純粋な論理のみで駆動し、その結果、汎ゆることに躊躇がない。
父が少女の中に見出した特異点こそ、この「純粋な思考回路」だった。
通常の人間であれば、思考の過程において、必ず感情という名のバイアスが介入する。
それは、生存本能から来る不安や、社会的な報酬を求める承認欲求といった、曖昧で非効率的な人間が持ってしまった
これらのノイズは、人間の行動を予測不能にし、集団的な最適解から遠ざける。少女の父は、感情を情報処理のバグと定義していた。そしてそれは、少女の父自身も例外ではなかった。
しかし、少女の脳内には、その濁りが存在しなかった。彼女の思考は、まるで完全な真空の中で光が進むように、最短距離で終着点へと到達する。
たとえば、危険な状況に直面したとき。通常の人間であれば、「逃げるべきか、戦うべきか」という論理の前に、「怖い」「死にたくない」という感情が割り込み、瞬時の判断を遅らせる。
だが、少女の場合、その回路が最初から欠落している。彼女の脳が行うのは、「現在の行動オプションA、B、Cのうち、生命維持および目的達成の確率が最も高いのはどれか」という、極めて冷徹な確率演算だけだった。そこに、自己保身のための躊躇は介在しない。
少女の父は、彼女のこの思考回路を、人類の進化における究極の到達点だと確信した。
彼が研究するバイオネットワークの最終目的は、集合的な知性とそれを統括する情報処理サーバーの構築にあった。
しかし、個々の人間の脳が感情や欲望というノイズを持ち込む限り、その集合知は常に
「お前は人類の鏡だ」と、少女の父はかつて実験中に語った。
「お前は、人間の非効率な感情を濾過し、真の論理だけを映し出す。お前の思考こそが、私がバイオネットワークで実現しようとしている〈神の知性〉のプロトタイプなのだ」
父は、少女の欠陥を「突然変異による恩寵」と捉えた。
恐怖も愛も知らない彼女こそが、感情の呪縛から解放された新人類のサンプル。だが少女の父は彼女の事を何一つ理解出来ていなかった。
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