橋モリさま(2)
スサミはプレッシャーに耐え兼ね、陽だまりの縁側の方へ行かざるを得ず、ちょうどそこで香箱を作っていた黒猫のチャッピーを捕まえると、口でぷうとその毛穴にヘリウムガスを吹き込んだ。
チャッピーはまあるくなって、にゃ~、庭の陽だまりの中をぷわぷわと浮遊した。
「まあ、なんて良い女の人なのでしょう」
「ああ、ああゆう素敵な女の人ならば、悔しいが、俺にも異存はないよ。ソリ、良い女の人を見つけたな」
「本当、僕には勿体ない女の人だ」
一家団欒。
ディナーには皆で仲良く美食倶楽部へ出かけた。
世界中のうまいものを探求することをコンセプトに、まあそれはそれとして、千円前後の手軽な定食を出す大衆食堂である。奥の座敷に案内され、四人でペンタグラムな形の卓を囲んだ。
すると折角の祝いだというので、料理長の中川が自ら裸体になり、男体盛りをご馳走してくれた。でも気色悪かったので、好意だけ受け取って、別の料理を頼んだ。
中川は、寂しげだった。
まあそれはともかく、そのディナーの最中、橋モリさまの話題が出たのだ。
いや、直接、言及したわけではない。話の合間に、そういえば河童の川に立派な鉄橋が出来たのを知っているかい、と父のヒロシが尋ねたのである。
「おかげで、今までみたいに遠回りをしなくても、車で河童の川を越えられるんだ。ほら、先頃、村が市に合併されただろ。見返りとして、市から予算が出たらしい。やあ、村の名前がなくなったのは多少の寂しさもあれ、ありがたいものだね。交通の便が良くなったのだから、ソリも、これからはもっと
「え、でも、じゃあ、おやね橋は……」
ソリが聞けば、父のヒロシは顔を歪め、ううむその件に関してはむにゃむにゃと曖昧に言葉を濁した末、ぐうと狸寝入りを決め込んだ。どころか、周囲の客までも咳払いをするなど途端に挙動が不審となり、店内の空気が重くなる。仲居のチヨに至っては、露骨に盆を落とし、からーんと音がわざとらしく響いた。
それでもなお、ソリが「橋モリさまは……」と続けようとしたところ、母のエリザベートに叱られた。
「おまえも子供じゃないんだから、推し量りなさい!」
――なんだよ。地域共同体の暗黙の了解ってやつか。例のお固い結束ってやつか。だから田舎は嫌なんだ。
むすうとソリは黙り込む。
これはいけないと、目覚めた父のヒロシとスサミが場をとりなすため、そういえばニューヨーク株が三年九ヶ月ぶりに一万九千ドル台に回復いたしましたわ、ああそうかね、やっぱりカブはかす漬けもいいが塩漬けも捨て難いねえ、ええ、景気指標になる非農業部門の就業者数の増加が市場予想を上回ったことが好感を持たれたのですわ、うむうむさもありなん、里のは白カブでもここらのやつは赤カブだからねえ、はい、さらに設備投資の指標である1月の製造業受注も減少予想とは裏腹に増加して株価上昇へ拍車をかけたのですわ、ああそうだろうとも、ああ見えてカブはアブラナ科だからねえ、まあ、お
ソリは一人っ子の利かん坊で、いちど
翌の明け方、まだ
本当ならば、昨夜の話を聞いた時点で橋モリさまの安否を確かめに行きたかったのだが、スサミに遠慮したのである。まあそんな気遣いは無用なのだが、それをついしてしまうのは、やはりソリにとって、橋モリさまが初恋の相手だったからだろうか。
橋モリさまと最後に会ったのは、アメリカへ出発する前日、
以来、この田舎が大嫌いなソリは、敢えて帰省することをしなかった。
おやね橋は、もはや痕跡すら残っていなかった。
ここまで薄情にやってくれると、逆に見事なものだ。なるほど、臭いものには蓋をしろってか。田舎者どもめ、恥を知れ。
ソリは、やるせなさにひとしきり咆哮したいところだったが、そのテンションも得られず、ただ呆然と立ち尽くした。
橋モリさま……などと、もっともらしく崇拝するように呼んだところで、彼女はつまり人柱なのである。
どういう事情があったのかは知らないが、一人の女性の犠牲のうえで、この村の長らくの安全があったわけだ。
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