壁の外にいるもの
霧原ミハウ(Mironow)
壁の外にいるもの
1992年――
頂点に赤い星を掲げるゴシック建築の本部棟。丘に霧が深く立ち込めるとき、その姿は忽然と消える。外には真っ白な闇。壁の内側にその白は入ってこない。壁をすり抜けるのは「影」だ。人の形をした影。木組みの廊下に張り付くその影は、夕方になるとすっと立ち上がり、壁に人と同じ形の影を作る。影はやがて床板から五センチ浮き、十階の踊り場をゆらゆらと行ったり来たりする。
——そう主張する目撃談が、年ごとに語尾を変えながら残っていた。
「ドアの下に立つ影」の噂は、多すぎるほどあった。ノックをするとかしないとか、泣き声を残すとか。共通点は——隙間の黒が濃淡を変え、覗けば、無人。窓の結露には指の跡を残し、留守宅には、誰かが出入りしているような生活の形跡を残すということだ。
その影には、人より先に猫が気づくこともあるという。本部棟西の研究者寮での話だ。
ある晩、ジョーマの友人アルセニィの部屋で、飼い猫が、こちらの会話を遮るようにドア横の壁の角へ向かって背を丸め、シャー――と長く吐いた。目線は隙間ではなく、角の中空。毛が逆立ち、尻尾はボトルブラシのようになる。覗けばやはり無人。廊下の窓の結露には、見知らぬ指の跡が斜めに残っていた。
「来たか」
アルセニィはドアに鍵をかけ、椅子に戻る。
「隙間から入り、角に滞留」
ジョーマはポケットのメモ帳に書く。
二つの面が合わさる場所は、記号としては単純だが、実際はそれ程でもない。むしろ、複雑だ。そこは――よく見れば、空気が溜まり、匂いが折り返し、影が立ち尽くすのに向いた構造をしている。
だが、実際、角の白壁には、何もない。影も立っていない。猫の耳だけが、そこに何かを聞いていた。ガラスの内側で指が滑る短い音、微細な布の擦れる気配、見えない靴底が床から五センチ浮く時の静けさ。猫の背はゆっくりと平らになり、毛づくろいが始まる。緊張が引いたわけではない。ただ、角の〈滞留〉が別の場所へ移っただけだ。その滞留は、人間の間では噂しか作らず、猫の記憶にははっきりした姿を残す。
――滞留の気配は、もうその角にはいない。
「飯、行くか」
二人は椅子から立ち上がり、外套を羽織って部屋を出た。
夕方の教員食堂は、皿とスープの湯気で曇っていた。「盗聴器はオフ」というふざけた合言葉つきで、議論はいつもの場所に戻ってくる。
今晩の議論は――『大学内で強盗と幽霊、どっちが怖いか』
笑いに見せかけた真剣さで、誰もが少しだけ本当のことを言う。
理系の若手は、強盗だと主張する。物理的に危害を加えられる、と。文学部の院生は匙を置き、肩をすくめる。幽霊だ。壁をすり抜ける、と。ナプキンにペンで図を描き始める者もいる。壁の構造、監視カメラの死角、物理的防御。そこに、規約外の抜け道のように幽霊が割り込んで、議論は形を失いかける。
ある経済学部教授は、黒パンを両手でちぎりながら言う。
「強盗は法と壁で止まる。幽霊は規制を抜ける。そして——どちらも、この大学にはいる」
笑いは起きかけて止まる。窓の外で、中央塔の影が夕暮れに黒く研がれる。誰かが続ける。
「先生、幽霊は実在するんですか」
「呼び出せないが、向こうからは来る。その種のものなら、いくつかは実在する」
強盗は壁で止まる。幽霊は壁の約束事を外す。建物の構造は、ときどきその両方を許す。夜風が足元を抜け、笑いあう者の背筋を一瞬ひやりとさせる。
結論は単純だ。壁の外にいるなら、どちらも怖い。
(了)
壁の外にいるもの 霧原ミハウ(Mironow) @mironow
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