必技鶺鴒返し
萬田万蔵という中年男性がいる。
この万蔵の人生といえば、まるで線路に乗った電車のように、一流半の高校、大学を出た後、特に将来の展望もないまま地元の企業に就職した。
その企業は地方では大手の皮革会社、その技術開発部に所属……といっても、五年程前から本社から隣町の工場へ飛ばされ、現場と事務方の板ばさみに骨を折る毎日である。
齢はいつのまにやらもう五十だ。
最近、めっきり白髪が増えた。あら萬田さん、いたんですか? などと、若い女子社員にからかい気味に言われる。冴えない奴。それが万蔵だ。
冴えないぶりにも培ってきた歴史という奴がある。
小学校時代、親友が悪戯っ子に苛められていても、見て見ぬふりをした。中学校時代、好きだった女の子が不良たちにいろいろ嬲られている時も、見て見ぬふりをした。高校時代に通学途中、老人がひき逃げされる現場を目撃したのだが、見て見ぬふりをした。大学時代、友達が怪しげな宗教に傾倒していった時も、見て見ぬふりをした。社会人時代、上役が不正な経理を働いた時も、見て見ぬふりをした。これらはほんの一例に過ぎず、面倒ごとに巻き込まれそうになると、ありとあらゆることを見て見ぬふりをした。
凄く視界の狭い奴にも思えるが、否、実はこういう人こそ、ファンタジスタ顔負けの広い視野を誇っているのであり、怪しげな気配が立ちあがるや否や、火の手の及ばない所を目ざとく見つけ、そこへと素早く逃げ込むのだ。
但しその代償として、周りにこれといった敵を作らない代わり、誰にも信頼されないという、生きていくうえで致命的な十字架を背負わされた。
例外的なのは彼の妻だ。
とよ子という。
彼女とは、父方の叔母の奨めで見合いをし、以降、何回か交際を重ねるうち、不思議と順調に結婚までいった。
それから十年ばかり。
とよ子には、少し神経衰弱的なきらいがあったが、ことなかれ主義の万蔵のつまらない性質とマッチしたのか、とても仲の良い夫婦だった。
万蔵は、妻を愛していたし、愛されていたという自負もある。
極端な話、万蔵は妻さえ傍にいてくれれば、あとのことはもうどうでも良くなっていた。どうせ、俺のはくだらぬ人生だから、立身出世なんてどうでもいい。愛憎渦巻く人間社会の中、隔絶された鳥かごの中でひっそりと身を寄せ合う
しかし、およそ一月前、妻は死んでしまった。
万蔵は悲しみは筆舌に尽くし難いものだった。
それからというもの、万蔵は家に引きこもりがちとなり、会社にも出勤しなくなった。一応、会社側には有給扱いにしてもらっているものの、もう関係ない。
万蔵は、自殺するつもりだったからだ。
妻のいない人生など、もう、存在する意味を見つけられなかった。
目の前に睡眠薬とウイスキー。
ただでさえ万蔵は、妻の葬式以降、アルコール中毒になっていたから、楽勝で死ねると思った。
――花に嵐の例えあり、さよならだけが人生だ。
享年五十歳。
「待ちたまへ、待ちたまへよ、君」
現れたのは、一匹のセキレイだった。
セキレイとは、だいたい春先から夏ごろにかけて道路を得意げに走くりまわっている、奇天烈な野性の小鳥だ。別名、シリフリともいう。
妻の葬式以降、ろくに風呂にも入らずボサボサになっている万蔵の周りをセキレイは、ゴキブリよろしく、さかさかと走りまわっていた。一体、どこから部屋に入ってきたのだろう。それとも、俺の頭がおかしくなったのだろうか。
万蔵は、きょとんとした。
――それよりもなんでこの鳥は日本語を喋っているのだろう?
「テレパスィー」
は!
「俺は今はこんなナリに変えられてはいるが、実はゴッドハンドに仕えるデヴィルサイダーなのであり、ゆえに君の願いを叶えなければならないのだ」
セキレイは意外に大物のようだ。
「意味がわからない」
万蔵は首を振った。
するとセキレイは「見たまへよ」と得意げに言い、万蔵の胸あたりを羽で指差した。
見ると、万蔵の首飾りであるベヘリットが、血の涙を流していた。
は!
魂の慟哭が次元の扉を開いたのだ。
「これは因果律なのである」
セキレイは静かに言い放った。
「君の願いを叶えてやろう」
無論のこと万蔵の願いは唯ひとつである。
「妻を生き返らせてくれ」
「たやすいこと」
いつの間にか万蔵は地獄にいた。
「な、なんで地獄なのだ、妻は善人なのだぞ」
「ちっちっち、女にはいろいろあるのよ。そう、女は海、深い海なのよ」
セキレイはうっとりと言う。
おまえはテレサ・テン、もしくは、タイタニックの最初と最後に出てくるババアか。
「ちょっとそこで待っておれ。今、私が君の妻を連れてきてやろう」
セキレイは地獄の奥にさかさかと走っていく。ところでセキレイは鳥のくせになかなか羽を使わないのは何故なんだろう。すぐに飛んで逃げる奴はダセえ奴という認識でもあるのだろうか。なんてことを万蔵は考えていたらセキレイが(やはり走りながら)戻ってきた。
「そうそう、君に言い忘れたことがある。今から君の妻を連れてくるわけだが、その時、彼女は君の背後から現れるだろうから、君は決して振り向いてはならないし、また、一言たりとも話してもいけない。ただ真っ直ぐ前を向いたまま、黙々と出口へと歩くのだ。簡単なことと侮るなかれ。イザナギ卿もギリシア辺りの某も、それで失敗している。油断なきよう」
そう念を押してから、セキレイは再び、地獄の奥へと消えていった(やはり走りながら)。
それから小一時間あまり。
「……あなた」
セキレイの言った通りに万蔵の背中の側から、懐かしい妻の声がした。
万蔵は喜びを噛みしめながら、セキレイの忠告を守り、粛々と地獄の入口へと歩いた。なんであなたがここにいるの? わけが分からないわ、ねえ黙ってないで答えてよ、などと、妻がいろいろ話しかけてくるが、万蔵は答えたい衝動を必死で抑えながら歩いた。
だが。
妻が「きゃあ」と、どうやら、何かに
しまったと思った時には、もう遅かった。
妻の恨めしそうな顔。
気がつけば万蔵は、鬼に囲まれていた。
「見ぃたあなぁ、見ぃたあなぁ、見ぃたあなぁ」
鬼たちは、意地悪く万蔵を囃し立てる。
ああ一巻の終わり。
万蔵は頭の中が真っ白になった。
刹那。
『あきらめるな!』
セキレイのテレパスィーが、忽然と万蔵の頭の中に響いた。
『万蔵よ、君がおよそ五十年に渡って磨きあげてきたスキル、それを今こそ見せつける時ぞ!』
俺のスキル?
ああそうか、何の価値もないくだらぬ人間である俺の、そんな俺の唯一の武器!
「……え? 俺、何も見てないっすよ、いやだなあ、まいっちゃうことだよなあ」
万蔵は素知らぬ顔で鬼たちを煙にまいた。
天上の神もとくと御照覧あれ、萬田万蔵、一世一代の、見て見ぬふりである。
くわって感じ。
愛なのである。
ピース。(完)
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