0.6秒の余白 ― AI評価社会の人間審査

Algo Lighter アルゴライター

第1話「魂は領収書で証明できますか」—作曲家

会場の表示灯が、正確な間隔で白く点滅する。

人流は光の拍に合わせ、半歩ずつ前へ滑っていく。

僕だけが、指先の癖に引かれて、半拍遅れる。


——error。


提出レーンの廊下を、赤い矢印が帯のように流れる。隅のモニターでは速度と人数が絶えず更新され、透明な提出枠の中で、差し込まれたデータカードが呼吸みたいに明滅している。係員はいない。視線の高さを、補正アプリの広告が周回する。

《ずれは美しさです。美しさは正確に記録できます。》


耳鳴りが来る。キーン。細い針が内耳を撫でる。

右手の親指でアプリを立ち上げる。履歴は波形で保存され、発生時刻と持続、日付が整列する。波形の縁には、僕だけが読める旋律が縫われている。誰にも聴こえない、僕だけの譜線。


胸ポケットからレシート束を抜き、裏面に五線を引く。インクは滲み、未払の生活が一行ずつ顔を出す。牛乳、乾電池、安売りの鉛筆、古いギター弦。金額の脇へ、耳鳴りの拍を写す。譜面台はない。指先が台紙になる。


列が進む。前の人の柔軟剤の匂いが拍に合わせて揺れる。表示灯が点く。皆が半歩進む。僕は遅れる。広告の赤が視界の端で光る。

《補正は無料です》


——error。


僕の番になる。提出枠のガラスの口が開き、端末を飲み込む態勢を取る。画面に指示。

《資格IDの承認を確認します》


承認は持っていない。正確には、承認のための証明がない。

近年の規約では、作曲家を示すのは購入履歴——教則プラン、ライブラリ、プラグイン、機材保険。帳票が創造を囲い込む最新の網。

僕の買い物は、牛乳と乾電池。


それでも挿す。端末を差し込み、レシート束を読み取り窓に押し当てる。赤い審査画面が立ち上がる。

《既知の型判定アルゴリズム》が耳鳴り履歴とレシート裏の譜線を舐めるようにスキャンする。グリッドが重ねられ、拍と音階が規格の穴へ押し込まれる。補正アプリが提案してくる。

《あなたのerrorを固定しますか?》


固定、という語で喉が鳴る。僕のずれは、遅れたまま生きていたい。わかっているのに、指が一瞬、青い《はい》に近づく。クリック音が空気を切る前に、別の窓が割り込む。


判定:購買エビデンス 不足

判定:既知の型 適合率 0.42

判定:error


赤い画面が、僕にだけ聞こえる声で呟くように、errorを何度も上書きする。背後の誰かが、ため息にくっつけて言う。

「……でも、うまいんだよな、これ」


その「うまい」が、紙コップの底に沈んだ砂糖みたいに重い。

うまい、は平均に従順。

うまい、は規格の隙間に住めない。


提出レーンのむこうで、合格者の名が購入履歴とともに滑っていく。《音源A》《講座B》《保険C》。紐づいたシリアルの鎖が、彼らを作曲家にする。僕の鎖は、レシートのホチキスの錆に変わるだけ。


——error。


補正アプリの次のガイドが点滅する。

《errorを作品風に変換(推奨)》

サンプルの波形が滑らかに均され、半拍遅れが“かっこいい揺れ”として真空パックされる。微小な旋律差は、タグ付きの流行に編入され、名前と価格を得る。

《あなたのerrorをブランドに。》


指先が勝手に動く……はずだった。だが、耳鳴りがそこで変質する。キーンの尾に、かすかな二重線。遅れが、いつもより綺麗にふくらむ。画面の片隅で、見慣れないアイコンが一度だけ瞬く。《△》——鍵穴の記号。


僕はレシートを一枚、折り返す。印字と白地の境目を斜めにする。読み取り窓へ、角度を変えながらそっと当てる。赤い線が走り、端末が小さく震える。

《メンテナンス:人間審査ルート(非公開)》


スクリーンの奥で、薄い階層がひとつ外れる音がした。ルールの外ではなく、仕様の余白。誰にも使いこなせなかった欄外。

僕は、遅れで鍵を切る。


画面が問いかける。

《人間審査員 欠員/応募しますか》

小さな説明が続く。

《統計的に偏りを持つ可能性があります——だから、人間へ渡す。errorを読める者に》


今度は迷わない。《はい》を押す。次の瞬間、耳鳴り履歴が応募フォームの設問へ自動でマッピングされる。拍のズレ、持続、生活の細部。牛乳、乾電池、鉛筆、ギター弦。レシートと波形が、一枚の譜面に縫い上がる。

《提出:完了》


列の後ろから誰かが小声で言う。

「人間、まだ入れるんだ」

「error、要るらしいよ」


掲示板へ向かう。施設中央の縦長ディスプレイは、求職と公募をひとつのフォームで扱う。赤い帯が、上から下へ走り続ける。

《人間審査員 欠員》

注意書きだけが薄く点滅する。

《統計的に偏りを持つ可能性があります》


その文言は、今や違って読める。偏り——それは誰かの生き延び方だ。


初日の控室は白かった。支給されたのはヘッドセットと、厚手の紙の束。紙は久しぶりの重量で、端を指に当てると皮膚の熱が移る。上司のアバターが言う。

「機械の“うまい”と、人の“よい”は、必ずしも一致しません。遅れ、濁り、無音。あなたはそれを肯定も否定もしないで、まず、聴いてください」


僕は頷く。耳鳴りが軽く鳴る。キーン。微細なずれが、自分の中心へ戻ってくる。


審査ブースへ入る。透明な壁の向こうに提出者が立つ。スマホ、購買履歴、講座の修了証。だが、演奏は平均から滑り落ちる。画面の片隅に《適合率 0.42》。僕と同じ数字だ。


再生ボタンを押す。彼女の半拍遅れは不安の揺れではなく、呼吸の余白だ。四小節目の端に、小さな無音がある。機械はノイズと判定するだろう。でも、そこは息を吸う場所。

僕は紙の欄外に丸をつける。

《息の位置、正しい》

承認トグルを倒す。表示灯が点く。彼女は半歩、泣き笑いのまま前へ進む。


次の青年。プラグインの鎖は立派だが、拍はピクセルの精度で、空気の逃げ場がない。うまい。けれど、よい、に触れない。

欄外に短く書く。

《完璧に息苦しい》

不合格ではない。再提出の欄に、一行添える。

《窓を開けて録ってみて》

青年は驚き、次の瞬間、少し笑った。その笑いにも音があった。


日々、errorが集まってくる。遅れ、揺れ、空白、はみ出し。僕はそれを“直し”ではなく“読解”として扱う。規格に入らない部分こそ、本人の重心だ。統計は平均を支える。人間は例外を支える。ふたつは衝突しない。支える対象が違うだけだ。


夜、控室で自分のデータを開く。耳鳴りアプリは今日も波形を描く。いままででいちばん綺麗な遅れ。補正アプリのグリッドに載らない。

レシート束をもう一度取り出す。未払の生活は、まだ未払のまま。けれど、その裏に引かれた五線は、今日、何人もの他人の音を肯定するための譜面になった。


“あなたのerrorをブランドに”というコピーが、頭の中で静かに書き換わる。

——あなたのerrorで、他人を承認に。


その翌週、通知が来る。《仕様更新:欄外コメントの参照を標準機能化》。僕の欄外は、メニューの一項目になった。

提出レーンのむこうで合格者の名が流れる。《音源A》の横に、時々、空白が残る。そこには購買履歴の代わりに、欄外の書き込みが結び目のように表示される。

《息の位置、正しい》

《完璧に息苦しい→窓を》


規格は急に変わらない。けれど、余白に書かれた言葉が増えるほど、余白そのものが仕様になっていく。errorが、仕様へ折り返されていく。

誰かの「ずれ」は、もう「壊れ」ではなく、「前提からの差」として扱われる。差し引くのではなく、読み取る。そのためのスライダーが、UIの片隅に増えた。《息》《濁り》《間》——数値化できない三つのダイヤル。数字は便宜上のものだが、触れば確かに音が変わる。


帰り道、掲示板の前を通る。赤い帯は今日も走っている。

《人間審査員 欠員》の文字は消え、小さくこうあった。

《人間審査員 増員》

注意書きは相変わらず薄く点滅する。

《統計的に偏りを持つ可能性があります》

僕は小さく笑う。偏りは、誰かの息だ。


表示灯が点く。世界が半歩進む。僕も、遅れて進む。

けれど今、その半拍の遅れは、列の後ろへ押し出されるためではない。前にいる誰かが息を吸うための、ちいさな余白をつくるためだ。


——error。


翌朝、ブースのドアを開けると、壁の隅に見慣れない小さなアイコンが貼られていた。《△》。

近づくと、微かなクリック音とともに隠しメニューが開く。

《人間審査ログ:公開可否の選択》

僕は少し考えて、《公開(抜粋)》にチェックを入れる。欄外のことばが匿名で流通する。真似されるかもしれない。でも、真似できないのは、息の位置だ。


画面の光が、紙の束を照らす。今日も名前のない提出がやって来る。

僕はヘッドセットを耳に当て、最初の無音に耳を澄ます。

世界は半歩進む。僕は半拍遅れる。

その差の幅に、誰かの生き延び方が、今日も確かに残っている。

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