5、太宰治『走れメロス』
――俺は優等生ではなく模範囚だ。
現代社会の授業。夏休み明け初日にやったテストを返されながら、藤はひそかにそう思っていた。点数はまるで囚人としての振る舞いの採点だ。赤い丸は鎖の輪のようで、誤答の上にはねる斜線は鞭の軌跡のようだ。九十二点。自己評価より先に、母はどう評価を下すのか、一瞬考えてしまう。
夏休み、部活のために家を出るとき、「本分をはき違えないようにね」と添えられた母の一言が、いまだに小さな棘として残っていた。それ以外の日も、母が家に居させたそうなのを承知で、「外の方が捗るから」と、藤は図書館に逃げ込んで課題をやっていた。
模範囚という自認は、彼なりに自分を守るためのすべでもあった。俺は、刑期をなるべく快適にやり過ごすための役を演じている。自分を「優等生」扱いする人間たちから、そうやって距離をとることで、彼は他人事の中に自分自身をも押し込んだ。役に取り込まれずにすむ方法は、役を自覚することだけだった。
しかし、藤は思う。
――檻は、いつまで続くのだろう。
――卒業しても、檻は形を変えて残る。きっと、死ぬまで。
「じゃあ次、夏季課題の『税の作文』を出して。出席番号に集めます」
教師の呼びかけを受け、藤はファイルから一枚のA4用紙を取り出した。千字程度、字数明記、ワードで書いて印刷。その書式をすべて守った、九三一字の作文。「税の大切さ」「税に感謝」というお題目を書かせたいのは見え透いていたからこそ、藤は「税の再分配機能の現状の課題」という題を選んだ。ほとんど事実の羅列にとどめ、私的感情を入れなかったのは、小さな反抗だった。
ばん、と前の席から重たげな音がしたとき、藤は少し嫌な予感がした。頭を動かし前方をうかがうと、深谷が鼻歌まじりに紙の束を整え、ダブルクリップを止め直していた。二十枚はありそうな厚みで、表紙までつけられていた。
『帝政ローマの税制から見る人間社会の搾取と懐柔の普遍性』
タイトルを見て、藤は固まった。この人、「税の作文」そのものにメタ的に喧嘩を売りに行く気だ。すぐにそう理解した。
何も言えずにいるうちに、深谷の名前が呼ばれた。弾むような足取りで紙の束を出しに行った彼は、教師の顔を凍り付かせた。
「……深谷くん、これは作文なのかな?」
「作文です!」深谷は自信満々に言い切る。教師は束をめくりながら、ますます表情を曇らせる。
「目次と脚注、参考文献にマルクスとアーレント……これ本当に作文なんだよね?」
推察が当たってしまったことを藤は自席で確信する。アカデミックな様式を遵守するのがまた深谷らしかった。哲学博士のシングルマザー家庭という出自ごと、彼は武器に変えている。深谷がそれを公言していないからこそ、藤は肝が冷えた。
「作文ですよ。文を作ったので!」深谷はなおもにこやかに言い張る。
「……ちなみに字数は?」
「えーっとぉ、……本文は一万二千字くらいだったかな?」
教室のざわつきがにわかに大きくなった。本文は、ということは、脚注は除外した字数であることも意味していた。
「千字程度って言ったはずですけど……?」
「いやー、気づいたらこの字数で! 論旨的に削れるとこなかったんすよー! 程度の定義書いてなかったしいいかなって! えへっ」
「えへじゃなくて……まあ今回はこれで預かるけど……」
これを読むのか、という教師の心の声が聞こえてきそうだった。次に藤の名前が呼ばれた。コピー用紙一枚に収まる作文たちの中で、深谷の紙の束はやはり異彩を放っていた。藤はその上にそっと自分の作文を置き、何事もなかったかのように席に戻った。
自らを「生まれたときからドーナツの穴にいる」と称した深谷は、学校という
自由人の暴挙はその後も続いた。
「読書感想文、一人記名してない人がいるんですが、――『ゾラ「居酒屋」におけるアウグスティヌス的奈落との類似性』……これ誰のですか?」
現代文の教師が苦笑まじりにそう言った時、深谷がすぐに「はいはーい! 俺でーす!」と元気よく手を挙げた。名前を書くように促されながら、「これは読書感想文?」と既視感のある質問をされた深谷は、「似てるって思うのも感想でしょ?」とまたも強引に押し切っていた。
英語の時間は、「採点ミスや質問がある人は前に来るように」と言われるや否や、深谷は勢いよく立ちあがった。「ここ、なんで減点なんすか?」と不満そうな深谷と、「訳すときはもう少し文法と語順を意識しようか」と諭す教師の会話を聞きながら、藤は大体の事情を察した。
減点の訂正が認められなかった深谷は、席に着くなりぐるりと藤を振り返った。「ねーこれ丸でもよくない?」と示された解答欄には、彼の字でこう書いてあった。
『十年前、かの研究者を失った学会は、その後も彼の亡霊に囚われ続けた』
夏休み前に渡された副教材からの出題だった。模範解答はこうだ。
『十年前のその研究者の引退は、学会に大きな影響を与えた』
「……意訳しすぎだろ、文の構造変わってるし……」
「文脈とニュアンスを重視したんだよね」
深谷は悪びれるどころか得意げだった。この「亡霊」の問題での二点の減点がなければ一点差で負けていたのかと思うと、藤は色々と複雑な気持ちだった。
「文意はとれてるんだから、そのまま訳せば九十点代だったのに……」
「つまり才能は罪で減点は罰ってこと?」
深谷は照れ顔を作って頬を抑えた。いかにも芝居がかった所作。「もうそれでいいよ」と藤は溜息まじりに答案を返した。
一ひねりしないと気が済まないのは、深谷の自己主張の強さであると同時に反発でもある。藤が自己開示をしないことで抵抗する人間なら、深谷は自己開示によって抵抗する人間だった。
その証左みたいに、昼休み、購買のカレーパンをかじりながら、「藤くん見てこれ、俺の最高傑作」と深谷が意気揚々と答案を差し出してきた。物理基礎の授業で、答案返却の際に「テスト用紙に関係ないことを書かない」と深谷が注意されていた時から、藤は、あいつまた何かやったな、と苦い予感を抱いていた。
「最高傑作って……この十八点が?」
文系科目と理系科目の点数差は、つまり露骨なやる気の差だった。絶句していたら、「違う違う、裏!」と深谷が笑いながら口をはさんだ。
「解ける問題少なすぎてさ、暇つぶしで書いてたら筆乗っちゃって」
藤は訝しみながら答案を裏返す。
『タイトル:走れ摩擦』
その下にびっしりと文が連なっている。表の空欄の多さと対照的な密度に、藤はますます眉をひそめた。テストそのものの見直しより、こちらの推敲に時間をかけていたのまで想像がついた。
「……テスト時間中に何してんだ」
ツッコミどころは多かったが、まず藤の口をついて出たのはこの言葉だった。
「まあまあ、細かいことは言わずに。とりあえず読んでみてって」
「細かいことって……」
そう返しつつも、言われるがまま、藤はテスト裏の文章に目を落とす。
『摩擦は激怒した。必ず、かの邪知暴虐な物理基礎を除かねばならぬと決意した。摩擦には高校物理がわからぬ。けれども問題文の「無視してよい」に対しては、人一倍に敏感であった』
――『走れメロス』のパロディか。
最初は渋面で受け止めていた藤だが、『摩擦には竹馬の友があった。空気抵抗である』あたりから徐々に笑いに崩され始めた。
「空気抵抗がセリヌンティウス枠なのかこれ」
「そう! 物理の問題で無視され同盟! ちなみに市民枠は動滑車で、ラストのマントの女の子は重力加速度ね」
「無駄に配役凝ってるし……」
脱力ぎみに呟き、藤は続きに目を通す。「文科省は乱心か」と問う摩擦と、それに動滑車が「いいえ、乱心ではございませぬ。生徒を信ずることができぬ、というのです」と嘆きだしたあたりも、空気抵抗が「摩擦、私を殴れ」と言い出したところも、藤はどうにか耐えた。けれど、『摩擦は走った。エネルギー保存の法則も無視して走った』でついに耐えられなくなった。物理基礎のテスト裏で物理法則を無視しだす反骨精神もさながら、文体模倣のクオリティの高さが場違いすぎて、可笑しかった。
「なんだこの妙な疾走感……」
肩を震わせる藤に、ふふん、と深谷は得意満面でいちごミルクを吸い上げた。ラスト一文は『摩擦は、ひどく赤面した』で原作リスペクト満点の締めくくり。
「パロディの精度高すぎ……ほんと太宰好きだな……」
笑いの余韻が残る声で言って、藤は「はい」と答案を返した。
「へへ。……あ、ねえ、今度の演劇部の学年別発表、これやるのどう?」
受け取りつつ、いいことを思いついたと言わんばかりに、深谷が言った。カレーパンを大口でかじり、口角についたカレーを親指で拭って舐めとる。
「これ? 俺たち二人しかいないのに?」
「だって『蜜のあはれ』は顧問に却下されたじゃん。俺、金魚ちゃんやりたかったのに」
「いや当たり前……」藤は苦笑する。老いと愛欲をテーマにしている時点で教師が許可を出せないのは自明だった。「絶対止められると思うけど」という藤の制止を聞かず、「言ってみなきゃわかんなくね?」と特攻した深谷は、案の定玉砕していた。
「だから、これやろうよって。これ軸に、二人用の台本に仕立て直せばいいじゃん? 藤くん、竹馬の友やらん? 似合う気がするんだよねー」
「……竹馬の友って、空気抵抗?」
半笑いで確認した藤に、「そう!」とにこやかなピースが返った。不揃いな歯並びの中でひときわ目立つ八重歯に、嫌でも目が行った。
彼はいつもそうだ、と藤は思う。言葉によって、笑いながら牙をむく。知性が獰猛な無垢さという形で発露する。
「……じゃあ深谷は摩擦役やるわけ?」
わかりきっていることを尋ねることで、藤はその共犯関係に受諾の判を押した。つかの間でも模範囚の役から降りることが許されるのは、別の檻で別の名前を与えられている時だけだ。精緻な正しさがみっちり詰まった現実の中で、このへんてこな世界の住人を演じるのも、たまには悪くないと思えた。
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