6、ゾラ『居酒屋』

 深谷紅葉の知的獣性は、その週の情報の授業で最も顕著に表れた。

 情報の授業の夏季課題では「情報」をテーマに一人五分前後の発表スライドを作ってくること、休み明けにその発表をすることが課されていた。授業の最初に情報の教師がそのことを改めて明言した時、深谷が「あ、やべ」と小声で言ったのを、藤は聞き逃さなかった。

 発表中は照明が消されるから、今から作業をすることはできない。どうする気なのかと思い横を盗み見ると、その時にはすでに、深谷の横顔には勝算が浮かんでいた。

 発表は出席番号順に進み、やがて彼の番が来た。

「じゃあ次、二十七番の深谷くん」

 指名に対し、深谷は「はい」と凛々しい返事をした。迷いのない手つきで発表用のデスクトップパソコンを操作する。プロジェクターからは、深谷が自分のUSBを刺さず、デスクトップからパワーポイントを直接立ち上げ、「新規スライドを作成」を押した様子が途切れなく映し出されていた。空気は痛いほど凍っているのに、深谷だけが飄々としている。口笛まで吹いている。薄いざわめきの中、深谷はそのまま「スライドショーを開始」を押し、すっと背筋を伸ばした。

 次の発表者はタイムキーパーをすることになっている。藤はストップウォッチを握りながら、深谷が喋り出すのに合わせて、とりあえずスタートを押した。

「はい、お待たせしました。一年一組二十七番、深谷紅葉です。今日はご覧の通り、『情報とは何か』をテーマに発表します」

 ご覧の通り、と示された先には、目が痛いほどの白だけが映っていた。教室がにわかにざわつく。

「えー、皆さん。これが何に見えるでしょうか?」

 語り口は異様に堂々としていて、「何も映ってないよな?」と不安げに顔を見合わせる生徒まで出る始末。

「そう、皆さんご存じ、タブラ・ラサ(白紙)ですね」

 深谷は真に迫った顔で言いきる。

 ――そう来たか。

 藤は呆れつつも感心せざるを得なかった。白紙の進捗を逆手に取ったプレゼンとは。

 そこからの深谷は立て板に水だった。

「これは言い換えればパワポの原書状態、つまりスライドの実存とも言えます」

「また、このスライドは、仏教思想でいう“空(くう)”の概念も表しています」

「さらに、この白はヴィトゲンシュタインの“語り得ぬものへの沈黙”も表現しているんです」

「ここまでの流れでお気づきの方もいるかもしれませんが、なんとこの一枚で、西田の純粋経験と絶対矛盾的自己同一の両方が説明できるんですね」

「つまりこれはただの白い画面ではなく、西洋と東洋を統合しようとした西田哲学のリスペクトなわけです」

 ――口八丁もここまで来ると芸術だな。

 次々に展開される哲学古今東西ツアーを観測しながら、藤はふと気づく。

 タブラ・ラサ。

 ジョン・ロックの思想の経験主義を象徴する言葉だが、こちらは現代芸術にも応用された概念だ。マルセル・デュシャンのレディメイドや、ジョン・ケージの実験的音楽にまで影響を与えた。

 ――レディメイド。既製品使用。『泉』のサイン入り便器。……パワーポイント。

 ――情報量ゼロのスライドで情報を語る即興芸。……四分三十三秒の構図すぎる……。

 ――だめだ、どんどんコンセプチュアルアートに見えてくる……。

 藤がぐるぐる考えている間にも、真っ白なスクリーンを傍らに、深谷の独擅場は続いていく。

「ところで皆さん、方丈記の冒頭は当然暗唱できますよね?」

 突然の高いハードル、冗談なのか本気なのかわからない深谷の真顔、哲学談義から古典への急ハンドル。何もかもカオスな中で、「ここまで言えば僕の言いたいことはおわかりでしょう」と深谷がにやりとした。ぽかんとする生徒多数、「わかるか!」とヤジ数名。

 深谷は落ち着き払ったまま続ける。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。……皆さんおなじみのフレーズですね」

「そう、僕は“情報”を鴨長明の“泡沫”的概念、すなわち有と無の間で揺らぐ存在だと解釈しました」

「そして、それを投影したこのスライドによって、“情報”というテーマそのものをデリダ的に脱構築しようと試みたわけです」

「これが僕なりに“情報”というテーマに真摯に向き合った結論です」

「……以上です、ご清聴ありがとうございました」

 最後まで言い切ると、深谷は満足げに礼をした。少し間を置いて、困惑まじりの拍手がぱらぱらと生まれる。

「藤くーん、何分だった?」

 深谷の呼びかけに、「四分四十三」と藤はそっけなく答える。「あー惜しー! 十秒差!」と悔しそうな深谷に、藤は「やっぱり狙ってたのか」と苦笑を隠せなかった。

 情報の教師はコメントに迷いつつも、「次からはこの形式は認めません。他の人も真似しないように」と釘を刺すことを忘れなかった。もっとも「誰も真似できないって」と生徒から口々に言われるだけだったが。

「じゃあ次、二十八番、藤くん」

 嵐が去った後のような空気の中、仕切り直しとばかりに、名前が呼ばれた。藤は「はい」と立ち上がり、ストップウォッチを次の生徒に渡した。USBが刺され、『情報化社会におけるプライバシー観の変化』とスライドのタイトルが表示された途端、「文字がある……」と誰かが安堵とともに呟くのが聞こえた。


 多くの教師たちが、手懐けられない獣のように深谷を扱う中で、美術教師だけは唯一楽しげに彼と接した。現役で藝大の油画科を出ており、色々な意味で浮世離れしていると評判の人だった。

 その日の美術の授業は、『夏の思い出』がテーマの夏季課題を持ち寄り、小さな展示会をするというものだった。多くの生徒は画用紙に絵を描いて持参してきており、藤も例に漏れずその一人だった。夏休み、母の鶴の一声で連れられた鎌倉の街並みを、絵は得意でないなりに、写真を見ながらどうにか形にした。それを石膏ボードに貼りながら、すぐ隣で机に置かれた深谷の作品は嫌でも目に付いた。深谷はクラスでひとりだけ立体を持ってきていた。

 でろんとした形の、林檎の紙粘土細工だった。ゆっくりと教室を見て回っていた美術教師は、それを一目見るなり、「おっ、深谷くん、これ記憶の固執パロディ!?」と目を輝かせた。

「わかるっ!? 八月にシュルレアリスム展行ったんすよ!」

「いいなあ、上野でやってたやつですね! 僕も行きたかったんですよー」

「よかったっすよー! 白紙委任状も生で見れたし!」

 深谷もこの教師の前ではいつもの毒気がない。対等に話せる仲間だという認識が、語気の弾みに滲んでいた。

「わー、最高ですね! ねえ、ちなみに、これなんで林檎なの?」

 溶けた林檎をのぞき込み、美術教師は興味津々に尋ねる。

「なんか原罪について考える夏休みだったんすよねー」

 深谷はこともなげに答えた。「へえ! 原罪で林檎モチーフにするのさすがだねえ、わかってる!」と美術教師がにこにこ褒めちぎり、深谷は「でしょ!」と無邪気に胸を張る。

 その傍らで、画用紙にピンを指す藤の手が止まった。

 ――原罪。

 美術教師と深谷は、今度は「誰の描いた受胎告知が好きか」という話題で盛り上がっている。置いてけぼりを食らっている生徒たちは「またやってる」と言わんばかりに小声で話している。そのどれもがどこか遠い喧騒のように聞こえた。

 ――搾取と懐柔。

 ――脚注と参考文献つきの「作文」。

 一度動き出した思考は止まらなかった。

 ――ゾラの『居酒屋』とアウグスティヌスの奈落。破滅に向かうパリの場末の労働者と、神を見いだせず堕落に向かった神学者の告解。

 ――深谷が英語の副教材で「研究者の引退」の一節に見出した「亡霊」。

 ――答案裏に書かれた、無視される者の物語。

 ――即興で語れるほど馴染んだ「哲学」。

 ――林檎。林檎の品種には紅玉というものがあったはずだ。

 ――ルビー。シングルマザーだった母親の形見。倫理の外にある出自の象徴。

 原罪という一言が、まるで楔のように、気ままに思えた深谷の言動をひとところにまとめた。

 あの細く頼りないネックレスのチェーンが、どれほど深谷を縛っているのか。自由の体現者のような顔で、軽やかに笑う彼が、その実どれほど重い枷をはめているのか。ぞわりと寒気が走り、藤は身動きが取れなかった。

 ――いや、これはただ俺が勝手な解釈をしているだけだ。あいつの中に自分好みの「物語」を見ているだけ。

「この絵、いいですねえ」

 美術教師に声をかけられ、藤は我に返る。

「……そうでしょうか」

 藤の目からは、自分の絵は拙いばかりに見えた。何度も書き直した鉛筆の筆圧が残ってしまったのも、どれだけ訂正しても拭えなかった遠近感のちぐはぐさも、塗りの思うようにいかなかった部分も。見れば見るほど嫌なところばかり目についた。

 しかし美術教師は、「ええ、素敵ですよ」とためらいなく頷いた。

「丁寧な筆致で、モチーフにまっすぐ向き合ったのがわかる。いい目をしてますねえ。細かいところまでしっかり見てる。すごく藤くんらしい」

 そう率直に褒められると、藤はかえって居心地が悪かった。「もっと上手い絵なんていくらでもあるでしょう」と、卑屈な言葉が口をつく。「則孝くんは本当にいい子ですね」と言った教師や保護者たちに、目の前で「そんなことないです」と倍以上の長さで否定していた母の姿を、藤は無意識になぞっていた。

「芸術を語るのに、巧拙は本質ではありませんよ。表現はつまり人間そのものですから。演劇や文学もそうでしょう?」

 美術教師は茶目っ気たっぷりに微笑し、ひらりと身を翻した。花の間を飛び回る蝶みたいに、生徒たちの作品に次々とコメントをして回る。その眼差しが「品評」ではなく「鑑賞」であることが、藤にはどこか眩しく思えた。

 ――「こんな基本的なミスして。恥ずかしい」

 ――「どうして空欄があるの?」

 ――「言い訳する時間があるなら、次に向けてちゃんと勉強しなさい」

 答案を出すたびに母の口から洩れる溜息が、すぐそばで聞こえた気がした。

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