4、カミュ『異邦人』

 ――“すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。”

 最後の一節を読み終わり、藤は静かに本を閉じる。表紙の白い太陽が、窓の外の日差しと負けず劣らず眩しく感じる。

 夏の初め、昼休み。藤は教室で、深谷が戻るのを待っていた。

 今年度の演劇部はあまり人気がないらしく、入部したのは藤と深谷の二人だけだった。しかも上級生は全員が女子生徒だった。アウェイ極まりない女の園の中で、藤と深谷は連帯する他なかった。

 とはいえ、部活動が始まってしまえば、男も女も関係ないさっぱりとした空気の中にいられた。マルチタスク的な思考や、緻密な身体的コントロールが求められるという点において、演技はスポーツと似たところがあると、藤は感じた。偶発的に出たクリティカルを意図的に出せるよう練習することも。あるいは、苦心している間はいくら試しても難しかったことが、ふと気を抜いた時に成功する不思議な瞬間も。

 芝居に入る際、最初に身体を支配していたぎこちなさや恥じらいを、藤は気づくと感じなくなっていた。上級生から「筋がいいね」と褒められるたび、藤がどこか落ち着かない横で、深谷の方が「でしょー!」と得意げなのは気になったが。それでも深谷に「外郎売の習得はやくね!?」と驚いた顔をされた時は、どこか胸がすいた気分だった。

 だが、藤から見れば、深谷の飛翔ぶりのほうがずっと華やかだった。中学からの経験者という点を抜きにしても、彼の没入感と表現力は周囲から頭一つ抜けていた。即興劇の時間、セリフを読んでいない時すら、彼は「役」としてそこに立っているように見えた。

 部活で一緒の時間を過ごすうち、藤と深谷は自然と昼食も共にするようになった。教室での深谷の傍若無人ぶりは相変わらずで、今日は珍しく起きていると思ったら、昼のチャイムが鳴るなり真っ先に教室を出た。教師を「せんせぇ、ちょっといーい?」と呼び止め、「さっきの授業で気になったんだけどさぁ、アウフヘーベンの説明で苺大福はズレてね?」と聞こえたあたりで、藤は文庫本を開いて意識をシャットアウトさせていた。

 ――“きょう、ママンが死んだ。”

 その一文から始まる、有名な不条理文学。殺人の動機を「太陽のせい」と語る男・ムルソーの物語。この本を選んだのも、日差しの強さにあてられたからだろうか。それとも、『異邦人』という題のせいだろうか。答えなど出ないとわかっているのに、藤は半ば癖のように自問する。

「ただいまー! ねね、購買にメンチカツサンド残ってた! 奇跡じゃね!?」

 思考を深谷の声が切り裂いた。「遅い」とひとつ文句を言って、藤は弁当箱を取り出す。中には、母によって栄養と彩りが計算しつくされた、模範解答のような具材が詰まっている。

「あとさ、苺大福の話してたから口が苺でさー、ちょうどジャムパン見つけたから買っちゃった」

 深谷はどこ吹く風でご機嫌だった。椅子に後ろ向きに座り、藤の机にがさりと購買の袋を置く。そのままミルクティーの五〇〇ミリパックを出すと、ストローを刺し、じゅーっと吸い込んだ。「うまー、徹夜明けにしみるー」と気の抜けた声。

「……またか」

 藤はゆかりごはんを持ち上げながら、ぼそりと呟く。

「だってー、うちにいたって伯母さんがグチグチ嫌味言ってきてうるせーだけなんだもーん。だったらカラオケオールのが魅力的じゃん?」

 悪びれない笑みで、深谷がパンを取り出す。メンチカツサンド、苺ジャムパン、チョコデニッシュ。メンチカツサンドにまっさきに手を伸ばし、深谷は大口でほおばる。唇の間から落ちそうになった千切りキャベツを強引に親指で押し込む。

「昨日はマジで行って正解の回だったかんね。めっちゃ可愛い子いたの! 目くりっくりで超美人で、唇も髪もつやつやでさー。しかも向こうから『一緒に抜ける?』って声かけてきてくれて。ご褒美すぎる、生きててよかったー」

 むしゃむしゃ食べながらまくしたてる深谷の鎖骨の間で、ちらりとルビーが光る。

 母の葬儀の翌日に女と関係を結んだムルソー。母の死をまといながら夜遊びに耽る深谷。重なるとも重ならないとも断言できない奇妙な感覚を、藤はぬるい緑茶と一緒に飲み下す。

「んで別室いったんだけど、隣座ったらその子、めっちゃいい匂いするしさ、細いのに脱いだらすげーの! めっちゃ巨乳でさ、Gカップだって、やばくない!?」

「深谷、今食事中、ほんとやめろ」

 あまりにも明け透けな物言いに、藤はたまらず口をはさんだ。藤のしかめっ面を見て、深谷は可笑しそうにへらへらと居直る。

「ん? どうしたの? 俺は愛の話をしてるんだよ? イデアを希求する営み」

 ドヤ顔。それがエロースの概念を使った言葉遊びだと、藤はすぐに気づく。

「プラトニックとは無縁なくせに何言ってんだ」

 じとっと睨んだまま切り捨てる藤。

「やだ、藤くん辛辣~」

 けらけら茶化す深谷の顔に、反省の色はまるでない。溜息まじりに焼きサバをほぐしながら、藤はふと思い至る。

 ――孤独でなくなるために、憎悪を望む。

 読んだばかりの一節が、頭をよぎる。“世界の優しい無関心”に心を開き、幸福だと語る、ムルソーの独白。あの世界では悪としか見なされなかった正直さ。母の死を悲しむふりすらできない、欲望でしか繋がっていない恋人に「愛している」という嘘すらつけない、ある意味での純粋さ。

「お、今日カミュなんだー」

 深谷の声で、藤は我に返る。『異邦人』の文庫を勝手に手に取っている。

「まあな。誰かさんのせいで読み終わったけど」藤はわざと悪態をつく。

「太陽が眩しいから仕方なくね」

 にやっとする深谷。それを聞いて、藤は確信する。

 ――重なるんじゃない。重ねてる。意図的に。

 ――ムルソーの人間像を演じている。

 ――何のために?

 答えはわかりきっていた。

「ちょっと意外だなー。藤くんは『ペスト』のが好きそうなのに」

 真意の読めない軽い口調が、逆に思考を見透かされているようで、藤はひやりとする。

 ――「お前もリウーを演じてるんだろ?」

 そう告発されているような感覚。

「……リウーって、かっこいいけど、たまに胸焼けするんだよな」

 最大限誤魔化さずに返せる言葉を、藤はそれしか持たなかった。

「ははっ、そうなんだ。でもわかるわー。なんかやられるよな」

 深谷はだらしなく笑って、苺ジャムパンの袋を開ける。

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