3、江戸川乱歩『D坂の殺人事件』

 休日。『山椒魚』の観劇後、劇場から出た藤は、まだその余韻から抜け切れずにいた。舞台はあんなに自由なのか、というじんわりした感銘が、胸から全身に満ちていくのを感じていた。

「腹減ったー」

 余韻をかき乱すように、深谷が吠えた。「ミスド行かね?」と言われるがまま、藤は深谷に引きずられるように入店する。深谷は「やっぱこれは外せないよな」「お、これセールじゃん」と瞬く間に四つもドーナツをとり、さっさとレジに並んだ。藤はどこか呆れた気持ちでそれを眺めつつ、自分用に二つ吟味し、先に座っていた深谷のもとに足を運んだ。赤い髪は人混みの中でも目立つから、見つけるのは楽だった。

 深谷は椅子柄のシャツという、どこで売っているのかわからない奇妙な服を着ていた。出合い頭に「これ『人間椅子』の概念のコスプレ」と得意げだったことを、藤は思い出す。首元にはやはり雫型の小さな赤が光っている。

「そういえばそれ、ルビー? ガーネット?」

 ソファ席に腰を下ろしながら、藤は尋ねる。先に食べていた深谷は、「ん?」と口に食べかすをつけたまま顔を上げた。

「ああ、これ? ルビーだった気がする。確か母親の誕生石だし」

 フレンチクルーラーを齧りながら、深谷が答える。母親、という言葉が出たことに、藤は少し驚く。誕生石ということは、このネックレスは母親のお下がりか。

 男子高校生がわざわざ母親のお下がりをつける理由。それに気が付いて、藤はぎゅっと喉がこわばった。よほどのマザコンという線を除けば、答えは一つしか浮かばなかった。

 ――夕暮れの廃材置き場に、一輪の彼岸花が咲いている。

 あの連想はあながち的外れではなかったということか。

 藤は誤魔化すようにアイスコーヒーに口をつける。何を言えばいいのか、言葉を探していた時。

「藤くんさあ、ドーナツの穴って、存在してるって言えると思う?」

 二つ目のドーナツを手に取り、深谷が脈絡なく話を切り出した。ゴールデンチョコレートの黄色がぼろぼろと皿に零れ落ちた。

 あまりにも急で、概念的な問い。戸惑いつつも、藤は少し考えて、答えた。

「……もし穴が単体で存在するとしたら、今頃ここは穴が飽和してるな」

 深谷は「んふっ」と噴き出した。ドーナツを口いっぱいにほおばったまま、「藤くん、おもろ」ともごもご笑う。「そうか?」と藤は苦笑まじりに肩をすくめた。

 深谷はカルピスをちゅーと吸いこむ。一息ついてからも、「その発想なかったわ」とまだにやついている。藤は少し居心地悪そうに自分のオールドファッションをかじった。

「宇宙ってさ、ドーナツの形してるらしいよ」

 深谷がまたも唐突に言う。

「え、どういうこと?」

 藤が問い返すと、「さあ、わかんねー」とあっけなく梯子が外された。深谷はそのままドーナツに歯を立て、齧る。鋭い犬歯が一瞬だけ剥き出しになる。何か言いたげな気配を感じて、藤は黙っていた。案の定、軽く咀嚼して呑み込んだあと、深谷は再び口を開いた。

「宇宙がどうとかの理屈は知らねーけど。世間様がドーナツだとしたら、俺は最初から穴にいる人間なんだよね」

 迂遠な比喩だった。わざと遠回りをしているみたいに。

「とういうと?」

 藤は静かに促す。

「私生児なの俺。どっかの哲学科の教授がポスドク孕ませて――要するに、倫理を専門にしてるヤツらの倫理破綻の結果、俺が生まれたんだって。すごくない?」

 可笑しそうに身を乗り出す深谷。藤は言葉を失っていた。深谷はカルピスを一口飲み、続ける。おとぎ話でも聞かせるように。

「教授センセーは認知だけしたらしいけど、俺は顔も名前も知らない。母親は子ども養うために非常勤掛け持ちで無茶して、俺が中一の時ぶっ倒れて、そのまま。……俺の父親、葬式に来てたんかなー」

 深谷の口調は他人事のように淡々としていた。藤は衝撃を受けたまま、感情が追いついてこなかった。自分の生きてきた狭い箱庭では、存在すると思いもしなかった話。

「……じゃあ、今は?」

 藤はやっとのことで言葉を紡ぐ。

「ん? 母親にお姉さんがいてさ、その人のとこいる。伯母ってやつ。なんか潔癖な人でさ、細かいことでうるせーから喧嘩ばっかしてるけど」

 深谷が笑顔のままドーナツに歯を立てる。削れた場所に新しい歯型ができ、穴が欠ける。藤はそれを呆然と眺めている。

「……そんな顔しなくても、これはただ気に入ってるからつけてるだけだよ? 紅玉の紅と紅葉の紅って同じだし。デザインも血みたいでかわいいっしょ。それにさ、物理的に原罪をまとう人間って、なんかロマンチックじゃね?」

 ドヤ顔でネックレスをつまむ深谷。赤い雫型がちらちらと光を返す。

「軽いなあ」と藤は苦笑を作る。処理しきれない感情の中で、おどけた調子と多弁さの裏にある重さも、深谷が求めるのは同情や憐憫ではないことも、なんとなく感じていた。この告白をさせてしまったのが自分だという確信と罪悪感も。だからこそ、呆れたふりで誤魔化すことしかできなかった。

 同時に藤は、深谷が自分に声をかけたことを、どこか不思議に思ってもいた。自分は彼の言う“世間様”の体現者のような家に生まれて、そう振る舞うようしつけられた人間なのに、と。

「そういや藤くん、部活、何入るか決めた?」

 深谷は平然と話題を変える。藤はその気楽さをありがたいと思った。

「いや。文芸部入ろうと思ってたんだけど、去年廃部になったっていうし。どうしようかな」

 答えていくうち、藤の口調は段々と重くなった。藤にとってこれは切実な問題だった。部活は「有益な経験」としてお目こぼしされる、自分の好きなことを堂々とできる貴重な時間だった。もちろん勉強を怠ることは許されないが。部活に入ればその分、何かと口実ができて、家からの自由時間が増える。

「中学の時も文芸部?」

「いや、陸上。文芸部なかったし。でも陸上は、高校ではもういいかな」

 一度は運動部に入るよう親から申し付けられて、陸上部を選んだことを、藤は思い出す。それでも、バーを飛び越える瞬間、宙に浮いた状態で見える空は、嫌いじゃなかった。何もかもから、一瞬だけでも自由になれているようで。

「ふーん」カルピスを吸い上げながら、深谷が上目遣いに藤を見る。「あ、わかった、走り高跳びでしょ」

 ずばり当てられ、藤の顔が引きつった。

「……なんでわかんの」

「藤くん背高いし、ジャンプ系かなって。棒高跳びはチキってやらなそう。あと体育でベリーロールやたらうまかった気がする。どう?」

 ドヤ顔で並べる深谷。藤はふうと溜息をつく。

「……当たり。見事な推理だな探偵さん」

 藤は芝居がかった動作でゆっくり拍手をする。気恥ずかしさをそれで誤魔化したかった。深谷はドヤ顔をますます深め、「明智小五郎と呼んでくれたまえ」と胸をそらす。

「……そこ、ホームズじゃないんだな」

 素に戻る藤。

「乱歩のが好きー。ほら、エログロナンセンスな感じが」

 そう言われると同時に、藤は、深谷が今まさに椅子柄のシャツを着ていることを思い出した。曰く、『人間椅子』の概念のコスプレ。つまり深谷は今、江戸川乱歩の狂気と変態性をまとっているのか。そう気づいた藤が絶句していた時。

「つか聞いて? 最近まで俺、D坂って団子坂なの知らなくて! ずっと道玄坂だと思ってたの!」

 深谷が元気よく身を乗り出した。

「ははっ、渋谷?」藤は思わず噴き出す。

「そう! 知ってから自分でもおかしくてさ、渋谷でタピってる乱歩想像して一人でしばらくツボってたよね」

 深谷の思い出し笑いにつられて、藤も自然と笑いが込み上げてきた。

「ふふ、なにそれ、ハチ公前で待ち合わせとかすんの?」

 思わず重ねた藤に、「そうそう、横溝正史あたりと。そんで自撮りしてインスタにあげる」と深谷がさらに悪ノリを重ねる。

「おい時代考証」笑いながらツッコむ藤。

 二人してしばらく笑いが止まらなかった。特に深谷は、笑いが静まったかと思ったらまたツボに入り、ひいひい言いながら一人でテーブルに伏していた。その震える肩を見ながら、藤は「いつまで笑ってるんだよ」とアイスコーヒーを飲みつつ、まだ口元が緩んでいた。

 ――こんな風に笑ったの、いつぶりだっけ。

 胸に残る温度を感じながら、藤は少しだけ感傷的になる。

「ふー。……ふふっ」

 余波を引きずったまま、深谷がゆっくり顔を起こした。頬杖をつき、藤をじっと見つめる。

「ねえ、藤くんさあ、演劇部とかどう?」

「え?」

 藤はコーヒーのグラスを持ったまま固まる。

「いやー、さっきの小芝居、けっこうサマになってたしさ。演劇、楽しいよ? 自分から飛翔できる自由な時間」

 自由、という言葉が、藤の耳の中に反響する。

 深谷はまたにんまりと笑っている。観劇に誘った時と同じ表情で。

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