2、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

 入学後最初の校内模試を終え、授業が始まった一週目から、深谷紅葉は見た目を裏切らない素行不良を発揮していた。朝のHRにいないことも多く、授業中はたいてい、ノートも開かず居眠りをしたり、教科書の関係のないページを読んでいたりした。他クラスの女子といちゃついているのが見つかって注意されたという話も、夜遊びの噂も聞こえてきていた。深谷の生活態度の悪さに、教師たちも手を焼いているのを隠さなかった。

 一方で、校内模試の結果が張り出された時、文系の上位者の中に深谷紅葉の名前があって、藤はいささか驚いた。国語は特に、自分と横並びの二位だった。地頭でここまでこれたタイプか、と藤は胸中でそっと毒づいた。自分が寝る間を惜しんで勉強をしている間に、彼は遊び惚けているのだと思うと、忌々しかった。

 ある日、居眠りを注意された時、深谷は「欲求ピラミッドの最下層の生理的欲求が満たされてないんすよ、文句があるならマズローに言って?」という大仰な言い訳をした。「いい加減にしなさい」と教師はますます激しく彼を叱った。当然だ、と藤は白けた目で見ていた。

 またある日は、「そんな態度じゃ世間に出てから苦労するぞ」と言われた深谷が、得意げに「世間じゃない。あなたでしょう?」と返してますます火に油を注いでいた。『人間失格』の一節だと知っていたから、藤はその開き直りぶりになおのこと呆れた。

 さらに別の日は、放蕩ぶりを耳に入れた担任が「もう少し高校生らしく慎みを持って」と苦言を呈し、深谷が「洞窟のイドラじゃん! ベーコンの普遍性やっぱすげー」と一人でツボに入って大笑いしていた。教室中が静まり返っていた。「え? 知らない? 先生なのに?」と無邪気にぽかんとした顔がますます空気を凍らせた。「えっと……藤くん、わかる?」と担任にふられた藤は、「個人のもつ偏見のことです、確か」とぎこちなく補足した。

 毎度のこと、真後ろの席で見せられたり巻き込まれたりする自分の身にもなってほしいと、藤は頭が痛かった。一方で、態度と語彙のミスマッチさに少し引っかかってもいた。深谷が逸脱者であるのは間違いないが、それが単なる「問題児」としても異質であることに勘づいていた。

 授業後の号令で立った時、平均かそれよりやや小柄な深谷は、長身の藤より少し低い位置に頭がある。赤の中に黒の混ざり始めたつむじを見るたび、自身の学校生活の平穏のために、藤はいち早い席替えを望んでいた。


 授業の間の十分休み。藤のほんの些細なミスが、高校生活ごと軌道を変えた。

 藤はいつも通り文庫本を読んでいた。『太陽のない街』を読み終えてリュックにしまおうとした拍子、金属の栞が落ちていたことに、藤は気づかなかった。そのまま『蟹工船』を取り出し、読み始めたとき。

「“おい地獄さ行ぐんだで”」

 読んだばかりの冒頭文で呼びかけられて、藤はびくっと肩を揺らした。顔を上げると、前の席の深谷が、愉快そうにこちらを見ていた。手には、オオサンショウウオのあしらわれた栞。藤が中学の修学旅行で、京都水族館のお土産に買ったものだった。

「落としたよ」

 にこやかな表情のまま、深谷は栞をひらひらさせる。その首元、襟の奥に華奢なネックレスを見て、藤は少し怪訝に思う。雫型の赤い石が、頼りないほど細いチェーンにつり下がっている。見るからに女物だった。異物のはずなのに馴染んでいるから、余計に違和感がある。

 ――夕暮れの廃材置き場に、一輪の彼岸花が咲いている。

 藤の脳裏に一瞬、そんな情景が浮かんだ。

「ああ……ありがとう。置いといて」

 藤は儀礼的に返し、文庫本に目を戻す。これで話を終わらせるつもりだった。あのネックレスも、どうせ女からの貰い物か何かだろう。と違和感に蓋をする。

 しかし深谷は、「藤くんてサンショウウオ好きなの? この間も井伏の『山椒魚』読んでたけど」と、人懐っこい声で話しかけてきた。深谷が自分のことを認識していたことを、藤は少し意外に思う。それでも警戒心は拭えず、突き放すように続けた。

「別に、好きとかじゃない」

 眼鏡を直し、文庫本を必死に目でなぞる。漁夫たちの方言まじりの会話を、誤魔化すように頭に入れようとするけれど、文字列はうまく内容に変換されない。そんな中、深谷が切り出した。

「前から思ってたんだけどさ、――藤くんって、坂口安吾みたいな眼鏡かけてるよな」

 藤は思わず目線を上げた。まじまじと深谷を見る。頬杖をついた微笑の、射抜くような眼差し。ゆるく細まったつり目の奥に、自分の丸い黒縁眼鏡が映る。

 その時、藤は小さく直感する。違和感が結びついて、ひとつの仮説になる。今までの忌避感がそのまま引力に変わる。

 ――こいつとは“会話が通じる”んじゃないか。

 それを確かめるように、藤は曖昧にはにかんだ。

「……俺、そんなに堕落してそう?」

 堕落の許されない身の上であることを思うと、口調には自然と自嘲が混ざった。

 深谷はぱちぱちと目を瞬いた後、「ははっ」と楽しげに肩を揺らした。八重歯がのぞく。その表情は、教師をからかっていた時とはどこか違う、屈託のないものだった。

「でも藤くんは、安吾的というより、ドストエフスキー的な気がする。――あ、ねえ、なんか俺たち、どっちもカラマーゾフっぽくない?」

 それが同志認定の言葉であると、藤はすぐに察した。厄介なヤツに気に入られてしまったという後ろ暗さの奥底で、少しだけ、どこか晴れやかなくすぐったさがあった。共犯者を得たような愉快さ。

「深谷はドミートリィ? 似合いすぎるな」

 藤はわざと皮肉交じりに持ち出す。感情と欲望に生きる男は、彼とよく符合した。「ふふ、そうそう」と深谷は刺すら満足げに受け止め、続ける。「それで、藤くんがイワン」

 ああ、と今度は藤が腑に落ちる番だった。理性と懐疑に苛まれる男。アリョーシャをかけらも当てはめなかった深谷の観察眼にも、藤は驚いていた。「優等生」である自分が、内心では人間の愛も善性も見限っていると、とうに見透かされている気がした。

 やりにくいのか、やりやすいのか。初めての感覚が、藤にはどうも落ち着かなかった。

「そういえばさ、『山椒魚』、今、舞台やってるってよ」

 ふと切り出した深谷が、オオサンショウウオの栞をひょこひょこ動かす。

「……え、舞台化? あれを? どうやって……?」

『山椒魚』の登場人物は、山椒魚はじめ水生生物のみ。想像がつかずに怪訝そうな藤に、深谷はにんまり笑った。

「気になるなら、週末一緒に見に行かね? 知り合いのツテでチケットもらってんだよね」

 かくして藤は深谷に巻き込まれる。それが想像よりずっと深い因縁になるとは知らず。

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