二二〇号室

澄田ゆきこ

高校生編

1、井伏鱒二『山椒魚』

 1、

「――新入生代表。藤則孝ふじのりたか

 マイクの残響が引くと同時に、藤は原稿を畳み、丁寧に頭を下げた。分けた前髪がさらりと落ちる。入学式。決まりきった礼に、決まりきった拍手が返る。

 藤はゆっくり姿勢を戻す。耳の半ばほどまでの波打った髪も、ずれてしまった眼鏡の位置も、据わりの悪い場所にある。けれど、今直すのは式典でのマナーに触れることを、藤は知っている。

 儀礼的な所作でマイクから離れ、ステージを降りる階段に足をかけたとき。ちらりと確認した自席の傍に、藤は赤黒い頭を見つけた。一応詰襟をきっちり着てはいるが、気だるそうに足を投げ出し、あくびをしている男子生徒。

 ――同じ列ってことは、進学クラスだよな。

 藤は怪訝に思い、着席してから、再び視線だけで確認する。やはり同じ列に、差し色のような紅がある。ということは、同じクラスだ。校則に髪色の規定はないから、髪を染めている新入生は他にもいたが、高校デビューの染髪もせいぜい茶髪止まりだ。入試で一段階難易度の上がる進学クラスとなれば、それも珍しい。同じ教室に集められる前から、赤髪の彼が異物であることは疑いようがなかった。

 ――万緑叢中紅一点。

 ふと思い浮かんだ一節に、藤は苦笑する。人口に膾炙した「紅一点」の意味ではなく、ただ字義通りにとれば、そうも言える。一面の緑の中の赤色の花。黒々とした制服や頭の中の燃えるような髪色。

 ――校長が若葉だの新芽だのと言っていたのに毒されたか。

 ――どちらにしろ、関わらない方がいいのは目に見えている。

 藤は静かな諦念と共に、掌の中の原稿を見つめた。母が何度も手直しをして、もはや母の言葉でしかなくなった、新入生代表の式辞。けれど、自分の喉を通って出力されれば、自分の言葉ということになる。そして、内容なんて全員が聞いたそばから忘れている。自分そのものみたいだと藤は思う。泥水のような憂鬱が臓腑を満たす。

 ハレの日なのに、と自嘲しかけて、ハレの日だからだ、と藤は自答する。「お母さんは、これが一番則孝のためになると思う」という言葉は実質的な決定で、「よく考えなさい」は追従を強制する言葉でしかなかった。父は興味なさそうに母に賛同するだけ。この先もそうであることは見え透いていた。教師の家系であるというだけで、藤が将来教職につくことも、暗黙の了解のようになっていた。

 自分に許されたのは、母の書いた筋書き通りに模範的な人間を演じることだけ。「則孝」という名前を与えられたときから、きっと。それでも規範の檻に居続けるしかないと藤は理解していた。もし自分が髪を赤くしようとしたら――する気は毛頭ないが――母は激昂では済まないだろう。

 それでも藤はどこかで思う。あの鮮やかさは、まるで自由の象徴のようだ。自分がいくら望んでも手に入れられない類の。


 深谷紅葉ふかやこうようというのが彼の名前だというのを、藤はその日、机に置かれていた名簿を見て知った。出席番号は藤のひとつ前。情景の浮かぶ名前だと思った。まるでペンネームのようだと感じるのは、尾崎紅葉を連想させるからか。そう感じていた矢先、深紅の髪の彼が目の前の椅子を引いた。

 席についたとたん、深谷は真っ先に学ランのボタンを外し、ふー、と大きな溜息をついた。後ろの席からは、もしゃもしゃと柔らかい癖毛が無秩序にはねているのがよく見えた。頬杖をついた袖口から臙脂のカーディガンが覗いていた。不良然としているのに横顔はどこか怜悧で、頬に散ったほくろが肌の白さを際立たせていた。

 担任が来るまでの手持ち無沙汰、藤は外界を閉ざすように文庫本を開いた。

 ――“山椒魚は悲しんだ。”

 幾度となく読んだ冒頭。すっかり馴染んでしまったそのフレーズを、目でなぞる。山椒魚は身体の発育――特に頭の大きさ――のために、棲家である岩屋から出られなくなる。そこから始まる、井伏鱒二の描いた悲喜劇。

 ――“何たる失策であることか!”

 藤は、山椒魚のその台詞を、自分自身の代弁であるように感じていた。大人たちの望むまま優等生になった。なれてしまった。それは多少の幸いであると同時に悲劇でもあった。見放されて自由になることを願うには、自分はあまりにも期待に応えすぎてしまった。そう気づいた時には、何もかも遅かった。藤はとっくに品行方正という檻から出られなくなっていた。月並みな自己投影だとわかっていても、そう思わずにいられなかった。

 ――「お母さんは、そういうのあまり好きじゃない」「何が自分のためになるのか、よく考えなさいね」「あなたにはちゃんとした大人になってほしいから」

 母の言葉。家ではあらゆる娯楽がそうやって遠回しに禁じられた。唯一許された逃避は、本を読むことだけだった。それだけが藤の自由であり抵抗だった。

 流行りの漫画やゲームやドラマ、あるいはそういった原体験という共通の話題のない人間が、気楽な交友関係を築くことは簡単ではなかった。公立の小中学校で、学校生活をやり過ごすにあたって、友達、と呼べる人間がいなかったわけではない。けれど、藤はいつもどこかで他人事だった。疎外感は常に付きまとっていた。それをカバーするために「優しく気さくないい人」を演じることにも、慣れてはいたが、疲れていた。

 この高校生活は大学進学までの踏み台だ。そう割り切ることが、藤の生存戦略だった。俺はここで受験に必要な勉強をするだけ。文庫本を開きながら、気づくとそう唱えている自分がいた。


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