或る猫
三、或る猫
シャシャンと神楽鈴が鳴り響いて、巫女がしずりしずりと歩を進める。
音もなく、厳かで、あたかも神聖だった。
巫女は耳目を覆う布を巻いていた。現世における不浄を断つため眼・耳・鼻・舌・触・意の“六根”を削ぐ修行を常より行っているという。その足取りは確かだった。
何も変わらない――衣裏の肌に無数の爪痕があったとしても。側仕えだった娘はただジッと顔を伏せ、畳の目を数えた。
神楽は相も変わらず天女が舞うようだった。日の出のごとき朱色だった扇は、辰砂の輝きであり血染めの毒だったとしても。からくり人形の小さな手が猫の尾をもって振り回す、それを見物する能面たちの間に自分がいる幻覚に襲われて、娘は気が遠くなった。
えづく不協和音が広間にうち響き――直ちに羽交い締めにされて引き摺り出されながら、娘は訴えてしまった。
「かなめ様……!」
舞が止む。皆が息を止める中、「ふ、う」と巫女は息を漏らした。
「うう、ウ!」
突如むしり取るように顔の布を取り外した。その瞳は獣のように瞳孔が絞られて、腕を一振りすると、畳が五つに引き裂かれた。
「憑かれた!」
誰か叫び、途端に阿鼻叫喚とした。白の
肺を圧し潰す邪気を放ち、爪がしたらめたら掻きむしるたび、畳や壁天井を割いた。
「祓い給い清め給え」
「畏み畏み申す」
ばらばらと叫ばれる
「化け物め……!」
怒号も虚しくかまいたちに裂かれたように血飛沫が舞う。ひたひた近づく。娘は震えて立つこともできなかった。一歩一歩、足を引き摺るように化け物は近づいた。
《う》
《ららめ しし い》
人の口を通して発せられた音は金属を擦り合わせたように耳を障った。
《うら う らめ》
片腕が振り上げられ、娘が最期の光景を目に焼き付けるとき、間に誰かいてその腕を掴んでいた。
「何が恨めしい?」
黒い服を着た少年のように見えた。掴んだ腕を振ると、憑かれた巫女の体で吹き飛び壁に打ち付けられる。
「猫共の怨霊、雑魚にあたるくらいじゃあ役不足だろう。扇の巫女、言いたいことがあるなら自分で言えよ」
何者か分からぬ少年は、余裕気に薄ら笑っていた。
「どいつもこいつも未練がましい。そのくせ他力本願で手に負えない」
《うあ う にゃああああ!!!!》
黒いモヤ、はっきりと臨界を認知しえないモノが次々と巫女に飛び込んで覆い被さり、やがて四つ足で立ち、ピンと立ったミミは天井にも付く――巨大な猫の姿と成った。
襲いかかるその爪を少年はひらひらりと軽い身のこなしで避ける。その反射神経、跳躍力はとても常人のそれではなかった。そうして避けるたびに畳は裂け襖は倒れ、壊れていった。
「そろそろ地獄に送ろうか」
ポッと、火が付いた。
突如現れた鬼火は幻覚か分からない――けれど、その場にいたものたちにとっては紛れもない火であった。たちまち畳に燃え広がったそれは、眩く、焦げくさく、空気が熱く焼けた。
めらめら舐める炎は物の怪へと燃え移り、其れは巨体を身悶えさせて苦しんだ。
《ニャ、アアあああ!》
「かなめ様! おい、かなめ様はご無事なんだろうな⁉︎」
得体の知れない少年に、残った術師が叫び付ける。少年は振り返りもせず倦怠な調子で答えた。
「知らねぇよ。
「駄目だ……御神体をお守りしろ、命に代えても!」
その号令に、バラバラと術師たちが取り囲みかかっていった。炎構わず猫に飛びつき、その上また踏み台にして、猫の体毛、黒いモヤの中に突っ込んでいく。そうして奪取したのは、一枚の扇だった。
「早く!
「清めよ清めよ」と塊になってバタバタと逃げていく。離れる扇に纏った猫の怨念までもが引き剥がされ、巫女が転がり出でる。血の涙を流していた。
「
少年が踏み込み畳が沈むと刹那、術師たちを追い越し立ち塞がった。鋭く黒い爪が伸び、一閃、扇を叩く。
「あっ」
頭上を扇が舞う。
留金の要が壊れ、ばらけ、地に落ちた。
途端、びゅるびゅると
「結界が……なんてことを」
一人が泡を吹いて倒れた。また一人また一人と瞬く間の感染のように人が倒れた。やがてむくりと起きると、ニャアと言った。ニャア
ニャアニャア ニャアニャア ニャアニャア ニャアニャア あゝニャア
責めるもなにももう誰も正気を保っていなかった。
屋敷中からニャアニャアと、人の肉声が聞こえる。ぷっと少年は嗤う。
「猫屋敷に改名だな」
その中で、ト、トト、トと不規則な足音が近づいて、巫女装束の少女が蒼白の顔で現れた。奇妙な少年を認めると、すがる。
「誰……お願い 戻して。みんなを戻して」
「俺が焼けば地獄に行く。それじゃあ生贄にしてきた
少年はうすら笑って、親指を下向け壊れた扇の残骸を指す。
「やるなら自分でやれよ。“扇かなめ”は神を降ろせるんだろ?」
「でも……」
少女の目はさまよった。
「だめ。いわれてないのに だめ」
「ああそう。じゃあ」
少年は背を向けるが、思い出したようにちょっと顔だけ振り向く。
「誰、か。昔あんたに逃された、名前は未だない野良猫だよ。確かにいわれた通りにしなかったから、扇に注いだ
「あ、あ」巫女は口を手で覆い、目を瞬いた。
黒い尾、三角の耳が、見えないものの見える目に写った。
あの時の猫、猫、子猫。
ああ“この格子を抜けて外に出られるなら”
「生きて たのね。よかった……無責任に、放って、惨たらしく、死ぬだけだって……生まれて籠から出したことのない、弱い命だから……」
「死んだよ。
揺らいだ尾はそのまま二又に割れる。
「死んでもいいから籠から出たいって、もし言うなら借りィ返そうと思ってな」
そのままスタスタと彼は離れていく。
「待って」巫女は止めた。「待って 待って……」と扇の欠片を拾う。
「どうしたらいいか、判らないけれど……これしか、出来ないけれど」
開かない扇でスイと水平に半円をえがく。そのまま流れるように、舞い出す。
ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ かしこみかしこみかしこみもうす とほかみえみため はらいたまいきよめたまえ
謳う声は鈴の音のように空気を震わせ、澄んでいく。親骨に幻視の扇面がつづいて開く。
清浄な気が廻り舞われて、流れる。
染み付いた怨念が濯ぎ落とされて、無辜の魂が昇る。祓い落とされた思念の形骸、妖力が、扇に吸い込まれていき、封じられた。
やがてドタドタと、幾つもの足音が押し寄せた。
何が行われたか、彼らには分かったらしい。
「かなめ様」「かなめ様」
「すばらしき才 一切の不浄を断った身心が成す神業」
「さァさァ清め奉る」
「いそぎ
「お戻りを」
百センチあまり、八角に削られた太い白木の祓え棒がトンと床に付く音を聞き、巫女は硬直する。使い古された棒はところどころ赤黒く、血が滲んだようだった。
「あ、あ、はい」
「扇かなめ」
少年は、ズイと巫女の首に腕を回し絞めた。
「死ぬのに未練はあるか?」
「う、うう〜……」
ぼたりぼたぼたと大粒の涙が袖に染みをつくる。
「‘学校’に、行きたい。行ってみたい 普通を、してみたい」
「御意」
少年目掛けて棒が振るい下ろされると同時、数メートルも先に彼はいた。巫女を背負って。
「でも!」
叫んだ娘がいた。
「お外にでたら、かなめ様に魑魅魍魎がたかる……」
言いつつも唇を噛む。おぶさるのでなければ
「ああ百鬼は
だのにひょうひょうと、少年は
その後町では不可解な事件事故が多発して、噂では儀式が失敗して神社の結界が弱まったためではないかとまことしやかに囁かれた、とか。
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