#30

 私はこれ以上この話題を話したくなくてソファから腰を上げる。足音を立てながら壁に貼りつけられた作例の写真を眺めた。一枚の写真の前で足が止まる。紺野の首に入った蛇の刺青だ。


 アンタならできる……。

 もう、喋らないで!! 血が…ちぃが、止まらないの! 紺野さん、し、しな…死んじゃ……!

 し、んこきゅう、……めい、だい、じょうぶだから……。

 

 あのときの血のあたたかさを今でも覚えている。今ならわかる。今ならそれほど心配しないし騒ぎ立てない。傷の場所が頸動脈ではなかったからだ。傷の具合からみて頸動脈を狙われたのは確かだが紺野はそれをうまく避けたのだろう。左頸動脈ぎりぎりの場所にある創傷に絡みつく蛇。写真の中にいるその蛇と視線が絡む。


 めい……、しん、こきゅう、…それから、清潔なタおるを持って、おいで…、あっ、ぱくしけつ、だ……。

 首だよ!? く、首なんて圧迫し、して……、こ、紺、さん! わ、わたし…わ、たしできない、

 ……あんた、ならできる。おれは知って、る、アンタがゆう、しゅうな…ことを、……俺ダけ、は知って、いる……。

 

 あのときの私は涙を溜め、震える体を無理やりに動かした。頸動脈の場所すら知らなかった十代の私にはこの世の終わりに思えてしまっていたのだ。紺野が死ぬかもしれない。パニックは体の機能をすべて遮断させた。紺野の血が止まり、医療ガーゼで傷を塞いだ瞬間、腰が抜けたのを覚えている。紺野はその場で気絶するように寝てしまった。私は放心状態でうずくまり、浅い呼吸を繰り返していた。


 めい。お疲れさま、よくやったね。


 私も気絶していたようで目を覚ました場所は紺野の自宅だった。紺野自身の香りのするベッドで目覚めた私は慌てて起き、柔らかい笑みを浮かべる紺野に抱きついてしまう。紺野は生きていたのだ。紺野は涙を浮かべる私の頭を優しく撫でてくれた。それから私は三日三晩、紺野の家に泊まり、紺野と衣食住をともにした。紺野の腕の中で眠りに落ちるのは容易かった。

 紺野の刺青の写真を見てセンチメンタルに浸る。私が物思いに耽るときは大抵、紺野庵に関することだ。


「……この写真のデータもらえたりする?」


 不意に言葉を投げかけていた。彫り師と目線が絡まる。煙草を灰皿に置いていた彫り師はその煙草を唇に咥える。桐野の後頭部に穿っていた刃先を手に持ちながら、ふむ、と考える素振りを見せた。


「いいよ。多分あるはず」

「ありがとう」

「……いいね。慕う人が近くにいるって」


 彫り師の視線が憂いを帯びているように見えた。柳眉が下がり、哀哭を隠し持った表情に変わる。あなたはそういう人が近くにいないの? そう訊くのは野暮だった。


「……」

「大事にしたほうがいい。いつまでも今の関係が続くとは限らない」

「近くにいるから幸せ、とは限らない」


 互いの不幸を見せ合い、互いに埋まらないなにかを再確認する。この彫り師が大切な人間を失ったことは火を見るより明らかだ。ドラッグみたいだと思う。他者との関わりはドラッグに似ている。興味本位で手を出したら這い上がれない場所まで落ちているときがある。同じ時代に生きただけの赤の他人に盲目的になにかを欲している。 


 私は再度、紺野の刺青の写真に目線を這わす。そんなとき、私のスマートフォンが音を立てた。


「……めいです」

〈おはよう。今、家かな?〉

「いえ、外出しています」


 創傷を物ともしない声色が私の鼓膜を包み込む。センチメンタルに浸った私の脳を通り抜ける凛々しい声はなに者にも捕らわれず浮雲のように飄々と生きている紺野のからのものであった。


〈飼い犬ができてから外出が多いね〉

「……犬に散歩は必要でしょう」

〈だからって家を空けられると困る。怠慢だ〉

「紺野さんが誰かを殴らなきゃ私仕事休めるんですよね。それにこの仕事、無休ですよ。テキトーに怠慢な行動しないと私、首吊りますよ。吊っていいんです?」

〈……困ったね。ま、俺はそんな生意気なアンタが好きだよ〉


 私の言葉に諦めたように溜め息を吐く紺野。私の反抗的な態度など紺野にとって瑣末なことだ。なんでもできる紺野にとって私に仕事を強制させることなど容易い。私は仕事量は多いが紺野に強いられているとも思っていなかった。駄々を捏ねながらも、それほど労働環境が悪いとは思っていなかった。ただ、紺野とのこのたわいもないやり取りが好きなだけだった。


「どうしたんです? 急用ですか?」

〈いや。まだ少し仕事があるけど仕事終わったらめいとデートしたくて電話しただけ〉

「……私、ついにコンクリートに詰められます?」

〈この稼業をしていると女性口説くのも誤解される。一苦労だ〉 


 くつり、喉奥で笑う紺野。紺野が女性を口説く姿は想像できない。口説く必要がないだろう。私も恵まれた容姿をしているが紺野の比ではない。男も女も紺野の魅力の前では太刀打ちできないだろう。


〈大丈夫。今、建設中でなおかつ顔が利く会社ないから〉

「どういうこと?」

〈……知らずに訊いていた? コンクリートに詰めたらそのまま建設中のビルに埋めるんだよ〉

「………聞かなかったことにします」


 私は眉根を顰めながら溜め息を吐いた。電話口からくつくつ、と笑い声が聞こえてくる。悪辣なその笑みに私は再度溜め息を吐き出す。


「それで? どこに行けばいいんです?」

〈事務所に来てくれる? まだ仕事中なんだ〉

「承知しました」

〈犬は飼い主がいなくてもいい子に留守番できるだろ?〉


 暗に連れてくるな、と言われているその言葉。私は桐野を一瞥する。彼は施術台にうつ伏せのまま微動にしない。


「……私が犬を飼ったことがそんなに嫌ですか?」

〈腹立たしいね〉

「なら、紺野さんに目をつけられた人間でいまだ生きているのは彼だけになりますかね」

〈……殺していいなら殺すよ〉 


 地を這うような低い低い声だった。殺気を纏ったそれを彼はどんな表情で囁いたのだろうか。


「向かいます」


 私は紺野の言葉に否定も肯定もせずに電話を切った。


 桐野は私と紺野のやり取りを察したのか、車を貸してくれた。「おまえひとりで行かせるのは心配だ」と言いながらも、刺青を早く彫ってしまいたいのか、いつもの勢いはなく施術台から降りようともしなかった。また「対等でいたい」と自らが言った手前、私を信頼しているのか素直に車の鍵を渡してくれた。

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