#29
***
「おい。うそだろ」
私は悲痛な叫びを上げた。間抜けなそれは藤野組のお抱え彫り師のスタジオに響く。鏡の前で剃刀を頭皮に当て、髪の毛を剃っていく男は鏡の中から私を睥睨した。私の存在が煩わしい、と言わんばかりのその眦に私は大きな溜め息を吐く。煙草を咥えながら後頭部の髪の毛を剃るその姿は凛々しかった。こいつは刺青を後頭部に入れようとしている。止めるなら今だと思ったがもう遅いようだ。
こいつ、頭の形も美しいのか。そう憎たらしく見つめていれば、彫り師が煙草を咥えながら現れた。和彫を得意とする男は墨を被ったように体中黒く、その対比に髪の毛は白色に近いグレー色という出立ち。この男性は私たちより数年早く生まれただけだと言っていた。
「後頭部は痛いよ」
「わかってます」
「……訊くのは野暮だと思うけど本当にやるんだね? 日本じゃ半端者になるわけだけど」
「生き方は決めたので」
彫り師は桐野をそう脅すが、盤石のごとく微動にしない桐野は剃刀を洗面台に置いた。つるり、美しい頭皮が見える。
彫り師は煙草の紫煙を吐き出しながら私に「可愛いげのない子だねぇ」と呟いた。同意見だ。私も煙草をシガレットケースから取り出す。かちん、ライターを取り出し火を点けた。「対等でありたい」桐野の熱い視線に晒されたあの日から、私は自らの煙草には自らで火を点けるようになってた。
「睡眠、食事、セックスはした?」
「睡眠と食事はきちんと摂りましたが性行為は刺青を彫るのになにか必要なんですか?」
「ちんこに彫る人間もいるからね。一応一発ヤッとけ、とは普段から言っている。あんたのデザインはたしか鳳凰だっけ」
彫り師は描いたデザインを宙に翳し、出来栄えのチェックする。それを興味なさげに見つめる桐野。これから君の後頭部にそれが入るんだぞ。そう思いながらも当の本人がそんな感じなのだから私がヤキモキしても仕方がない。私は煙草を咥え、施術台の近くに置いてあるソファに座る。
桐野は着ていたワイシャツを脱ぎ施術台に上った。パンツからベルトを引き抜きうつ伏せで寝転ぶ。
「……はぁ。心臓から上は彫りたくないんだよ。紺野さんの首に入れて以来だ」
ぐちぐち文句を垂れる彫り師。だが、そう言いながらも彫るための支度を着々と進めている。煙草を咥えたままの彫り師は桐野の後頭部を撫でる。
「あんたの望むサイズだと後頭部から首にかけて肩までいくかな」
「……頼みます」
ヤクザになる準備を進める桐野。私が飼った犬は確かに育っている。ペディキュアを塗られたあの日から私たちの距離は近付いていた。以前よりも確実に。
「そういやぁ、紺野さんの刺青どんな感じ?」
「……別に普通ですよ」
煙草を咥えた私はソファに身を預ける。そして桐野の後頭部に遠慮なく刃先が食い込んでいくのを見つめた。私に質問をしてきた彫り師の男は目線を桐野の後頭部から外さない。目線が合わない会話は父と母を思い出させる。
「なぜ?」
「いや、首に入れてから紺野さんここに来てないから。そーいやぁ、あの当時、首をどうにか繋げたあんたを紺野さん褒めていたよ。ようやくあんたに会えた。光栄だ」
「仕事だから」
「仕事だからってヘマをする人間はいる。今回だって桂木さん助けたんだろ? 名医じゃん」
くすり、笑う彫り師はグレー色の髪の毛を垂らしながら刃先を一針一針丁寧に皮膚に穿たれる。後頭部は痛いと彫り師は言ったが桐野は呻き声ひとつあげない。腹を掻っ捌いてもなにひとつ言わなかったあのときのあいつを思い出す。
「別に私たちの代わりはいくらでもいる。あんたは違うんだろうけど」
こいつはなにもわかっちゃいない。私たち弱者だったころがある人間はいつまで経っても背水の陣だということを。一度でもヘマをしたら命はない。端から切り捨てられる存在が必死に強者に寄生しているのだから役に立たなければ殺されるだけだ。
「そうかな? 紺野さんあんたのこと大層大切そうに喋っていたけど」
「……」
それはただの庇護欲だろう。私は小さく笑って脚を組む。目線の先に赤く色付く爪が見えた。自分で塗るよりはるかに美しいそれは私をひとりの人間として見ている桐野の強く激しい感情を孕んでいるような気がした。私を医者として、女としてではなく、ひとりの人間として。そして言葉どおり対等でいたい。その気持ちが心地よいのだ。
「紺野は話術にも長けている」
「……だからって別に俺にあんたのこと喋る必要ないでしょ。あんた、もうちょい自分を大切にしなぁ。紺野さんはあんたのこと大事にしていると思うよ」
大事にはされているとは思う。だけれど、それは父親が娘に対して抱くものと同列で桐野が私に求めたような対等という言葉ではないのだろうと感じる。紺野は私を切り捨てられる。もしかしたら桐野は私と心中してくれるかもしれないが紺野はしないだろう。
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