#28

 桐野は下戸なのか烏龍茶を飲んでいて、彼が口をつけたグラスの側面は水滴で覆われていた。私たちはコースターなんて崇高な物は使わない。テーブルにグラスの水滴が落ち、水溜まりを作っていた。その桐野が飲んでいる烏龍茶のグラスに目線を這わせた。グラスの中の液体は氷が溶けて水と烏龍茶が分離している。その上澄みが狭量な私たちに似ているようだった。私はその桐野が飲んでいる烏龍茶を一気に呷る。


「片付ける」

「……シャワーしてくる」 


 私は逃げた。殴り合う喧嘩は知っている。傷が開いたら縫えばいいことも知っている。だが、仲直りの仕方は知らないし、言いすぎた場合の解決方法はもっと知らない。父と母は仲直りにキメセクをする。両親から学ぶことは少なかった。また育ての親である紺野もそれらを教えてはくれなかった。

 私は散らかり放題のリビングを出る。クローゼットを開き、新しい下着を手に取った。柔軟剤の香りがする。


「……、」


 生活が桐野に侵食されている。知らぬ間に完璧に洗濯がされている生活に塗り変わっている。紺野が作り上げた私の楽園が侵されていた。それが不快ではないことが問題だった。

 私は溜め息をひとつ吐き、脱衣所に足を進めた。桐野は煙草を咥えながらテキパキとリビングを片付けている。それを瞥見しながら洗濯機の前で下着を脱ぐ。ふと鏡を見つめると私の裸が鏡に映っていた。隆二が言ったように性行為を行ったことが一目でわかる身体をしていた。紫月はいい子だからキスマークはつけていなかったが、腰を彩る赤色の手の痕。背中に這う歯形。こんな見るに耐えない格好をしていたのか。下品にもほどがあるな。自らを嘲笑し、風呂場に入ったその瞬間だ。 


「めい」

「……なに?」

「入っていいか?」


 桐野の声が脱衣所から聞こえてくる。入っていいわけなくない? 疑問が頭を埋め尽くしていれば、からり、私たちを隔てる引き戸が開かれた。先ほどの寝室でのセックスと同じ状況が再度作られる。私は生まれたままの姿だ。桐野はスーツを着ている。 


「座れ」

「……随分と横暴だな」


 私は溜め息を吐きながらバスタブの縁に座る。裸の私の目の前に膝をついた桐野。彼は除光液を持っていた。コットンにそれを浸す。手慣れた指が乱暴に私の足を持ち上げた。マニキュアが剥けた爪の上をコットンが優雅に滑る。


「気になっていた」

「……その除光液、どこにあった?」

「おまえの医療器具が入っている棚」

「どおりで見つからないわけだ」


 私はけたけた笑いながら桐野に従順に従う。桐野は私に後頭部を見せながら手早くマニキュアを落としていく。除光液の香りが風呂場に漂う。 


「……悪かった。言いすぎた」

「別にいい、。おまえが駄目な奴だって気付いているから。……めい、おまえ、こんな場所にいたら駄目になるぞ。下の人間には先生って呼ばれ、上の人間にはこき使われる。対等な人間がそばにいなきゃ腐る」


 私がセックスのために寝室に呼んだときはなにも言わなかったくせに今は饒舌だな。そう思いながらも私を悟すその言葉がなぜだか私の心を優しく撫でた。


「めい。俺はおまえに忠誠を誓うが、同時におまえと対等でいたい」


 赤色のマニキュアが桐野の手により塗られていく。その言葉は俺を唯一としろ、と言っているような気がした。

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